「ジャグリングと身の回り展2022」の為の習作(仮題:「まいらい」)
今回の発表作
・習作(仮題:「まいらい」)
テーマは『消費活動がつくり出すもの』。
仮題「まいらい」は、my lifeの話だから。
あと、昧蕾=曖「昧」+味「蕾」の造語から。くらいつぼみ。
・『ピンクの猫』である私、じんの活動
生じる問いは、既にある前提知識・思想に基づいている。
「一体、ジャグリングとは何か?」 「つくるとは何か?」
そのように、疑問を持たせ、その疑問に答える形で人々の認識をアップデートする、という活動を私は行っている。
普段は言葉を用いているが、今回はパフォーマンス(による批評)をやってみたい。
私はいわゆる「ものづくり」をしていない。それは給料をもらう仕事においてもそうだし、ジャグリングに関わるこの”本業”においてもそうだ。
「ものづくり」、つまり、第二次産業と言えばいいのか、機能製品(プロダクト/products)をつくることから、私は遠い距離にいる。
私の(そして私の所属する『ピンクの猫』の)本業は言葉であり、私が「つくる」と言えば、それは言葉を生み出すことである。であれば、批評や研究によって概念や認識枠組みを生み出すこと、それについて発表するのが筋だろう。
私が今回発表するのは、「ジャグリングと身の回り展2022」に向けた批評である。
「身の回り」をつくる
私がこの2年ほどで3回引越ししたこと、そして例の流行り病のこともあり、「生活(my life)」というものについて考える機会があった。
考える機会といっても、それは世界に対して身体が戸惑うことによって始まるようなものだった。私たちの身体は戸惑い・試行錯誤から新しい振る舞いを獲得していく。
いま、「生活(my life)」というものについて考えていない創作者は嘘(faker)だ。というのは言い過ぎだろうか。
「身の回り」は「つくる」ものである。
引っ越してきた新しい部屋に物を置き始めるとき、何をどこに置くか、ということを考える。
あれが必要だ、買って来よう、とか。身の回りの生活空間をつくり始める。何度も物を使ううちに、その物の定位置が決まってきたりする。
人が、生活のあらゆることを自給自足で行っていた時代から時は流れて、「分業」という発明によって、「市場」の誕生によって、現代では、人は自分では機能製品をつくらずに、生活を成り立たせることができる。私も機能製品をつくらずに生活を成り立たせている一人である。
私は食べ物を得るために石を割って狩り用の刃をつくる必要はないし、服を得るために家にあるミシンで布を縫う必要はない(そもそも私の家にミシンはない)。
機能製品をつくらずに、身の回りをつくる、というとき、それは機能製品をつくることを誰かに任せて、自身は物を使う、消費をする、ということにほかならない。
「つくる」ことと使うこと
「ジャグリングと身の回り展2022」のコンセプトに関して、公式ページには以下の記載がある。
大量生産を推し進めてきた近代以降、「ものづくり」は、物を生み出すことで価値を生み出してきた。
この資本主義社会では、あらゆる物が商品となってしまう。
私たちは物を買い、消費し、捨てる。私たちは商品を欲しがり、手に入れ、消費し、手放し、また違う商品を欲しがる。物によって作られる消費の欲望は際限がなく、ある物に飽きて、また別の物に手を伸ばす。この欲望を満たすもっと良い商品を!と繰り返すうちに、私たちは何かを消費することに快楽を覚え、加速する消費の螺旋に巻き込まれる。
私たちはこの欲望と消費のサイクルの渦中に居ながらも、このサイクルが(不可逆的に)消耗する資源について気づくことがある。
一つは、物を使う私たちの身体のことについてである。
肥大する欲望と消費のサイクルを回し続けるには、資源が必要だ。もちろん、金銭や時間といった財が必要であるというのもそうだが、ここで述べたいのは、健康な身体こそが快楽を得る基盤だということだ。
ゲームで腱鞘炎になったり、食生活が原因で痛風になったり、快楽が苦痛になったとき初めて、今まで回していたサイクルが自身の身体に及ぼしてきた影響・変化に目を向けることになる。
もう一つは、私たちが使う物のことについてである。
私たちは物から永遠に快楽を得たいから、使い続けることをやめない。このサイクルを完全に停止させることはもはや現実的ではない。ただ、使う側の私たちの都合ではなく、使われる側の物の都合で快楽が途切れる瞬間がある。
「ポテチなくなっちゃった」
石鹸がすり減るように物は消費され、”なくなる”。食べる手が止まらないその手が止まる瞬間は、物がなくなったときだけだ。
その瞬間、私たちは(欲望に衝き動かされ)同じ物を買うか、もっと良い物を買うかを選ぶ。快楽が途切れる瞬間にだけ、商品の選択ではない別の選択肢が入る余地がある。
私たちは別の方法で、物と向き合わなければならない。いや、別の楽しい方法で、物と向き合うことができる。
物は私たちに強いるのではなく、物は私たちを魅惑*する。消費の快楽は充分に大きいことを肯定した上で、別の楽しいことを考えてみよう。
「物を作る者」としての楽しさについて語ることは、他の「ものづくり」の活動家に譲る。私は私の生活から、物を使う者として「つくる」ことを考える。つまり、物の使い方をつくるということを。
ここで、「私のものにする」ということについて考えてみよう。
私が物を買うことにより、物が誰かの物から私の物になる。物の所有者である私は、その物を使い果たすことができる。
(私たちが物をかえ品をかえ、商品を使うとき、物はすり減り消費されるが、革製品などは長年使い込むことでなじんでいく*。)
しかし、ある物を「私のものにする」とき、物だけが変化するのではない。私たちは商品を使うとき、その物に合った使い方を習得している。つまり、私たちは時間をかけて、物の使い方を習得した身体になる。私の方が変化しているのだという点は重要である。
注釈
*「魅惑」の語は、上妻世海「制作へ」(2018)を参照している。
上妻はグレアム・ハーマンの「魅力(allure)」「暗示(allusion)」概念を参照している。
*例えば、谷崎潤一郎「陰翳礼讃」を参照することができる。以下引用する。
物との関係性を新しく結ぶ
「ジャグリング」というものと、「物の使い方/遊び方を新しく見つける」ということは密接に関連している。
以下、拙著「ジャグリング論集―ジャグリングを分析美学する」(2019)より引用する。
機能製品(プロダクト)は、使い方が規定(prescription*)されている。
人が作ったものではない自然物や、芸術作品とは異なり、機能製品という物を、私たちは道具連関*で把握している。
大小・色・形が様々な「コップ」は、「液体などを中に注いで、それを持つ」という使い方を規定しており、むしろ、その規定を認識しているからこそ、その物の存在は「コップ」という道具として私たちに現れる。*
そのような機能製品のデザインは、目的・機能(=規定された使い方)によりまた新しく決定され、進化していく。
私たちは自然物や芸術作品しかない世界に生きていないために、道具として物を認識するということに慣れすぎている。
道具連関についてもう少し話そう。
私たちは、いつもはハンマーを「釘を打つ道具」(機能的道具)としてしか認識していない。釘を打つという目的が果たされるならば、それが実際は凍ったバナナだろうと鮭だろうと何だっていい。
その”何だってよさ”こそが、私たちが普段、「物自体」(REAL things)とではなく、物の私たちが触れ得る部分(sensual things)としか関係を結んでいないことを裏付ける。物を使っているとき、「物自体」はどこか遠くに行ってしまう。
ハンマーを手にする私たちが考えているのは、いかに適切に釘を打つかであり、私たちの目は釘に向いている。私たちがそのときハンマーについて触れ得る部分とは、手の平に握る感覚とその重さだけだ。
本という物についても同様のことが言える。
私たちが本を読むとき、目に入るのは文字や挿絵であり、頭の中には思考や想像が展開され、「物自体」はどこか遠く奥に感じているか、あるいは感じてすらいない。
もし機能を果たすだけでよいなら、文字が浮かび上がってくるか、あるいは情報だけが脳内に流れ込んでくればよい。しかし、私たちは物として本を愛蔵することがある。
私は、海や、月や、花や、化石や、地層や海岸線や、目的・機能がなく(something GODによって)作られたものについて、美しいと感じ、魅惑されることがある。
その魅惑は、物が道具連関では汲みつくせない存在であることから生じている。その魅惑は、新たな関係性の結びつきを生み出す。ゆえに、制作的*である。(多くの芸術家がその内的動機・インスピレーションを自然物から得ていることは言うまでもない。)
その魅惑・美しさは、機能製品における機能美とは異なる。洗練された機能美は確かに価値あるものだが、それは規定された一つの使い方を洗練させ・進化させるとしても、そこから外れて、私たちと物との関係性を新しく結ぶことを生み出さない。
だから、機能製品に対して「使い方をつくる」ことで私たちが制作的になることは、私たちと物との新たな関係性をつくり出し、新たな美しさを私たちにもたらす。そして、それは楽しいことである。
ジャグリングによって、機能製品を遊び道具にすることができる。
物との関係性が道具的な関係性しかないという固定的な状態を脱することが、私が豊かになることにつながっていくと考える。大量生産・大量消費が前提とする豊かさ、多くの物の使い方;a way of many productsではなく、多くの物の使い方;many ways of a productを習得することで、別様に豊かな私になる。
注釈
*「prescription」の語は、ウォルトンのフィクション論から引いてきている。
参照文献:Kendall L. Walton「Mimesis as make-believe : on the foundations of the representational arts」、邦訳「フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術」(田村均訳、2016)
*「道具連関」の語は、起源はハイデガーだが、私は前述の上妻の著書を経由して知った。
参照文献:上妻世海「制作へ」(2018)
マルティン・ハイデガー「存在と時間 上」(細谷貞雄訳、1994)
グレアム・ハーマン「四方対象: オブジェクト指向存在論入門」(山下智弘ほか訳、2017)
*ここでの、コップの例は、山下耕平「ジャグリングの可能性について―技でつながる人・物・人―」(2021)を参照してもいる。同論考の第2章では、本文の記述とも関連する視点が示唆されている。
*「制作的」の語については、上妻世海「制作へ」(2018)を参照している。
新しい価値と「ゴミ」
物との関係性について整理する。
まず、機能製品のような物には「規定された使い方」がある。
そして、ある物が別の用途にも使えるということは、新しい身体の振る舞いを生み出すゆえに価値あることだが、機能的使用の関係に留まっている。
そのような機能的使用ではない、使うときに見えなくなってしまう物の部分についての関係性の一つの例として、物には「BEAUTY/ART」の側面がある。それが主に自然物や芸術作品との関係で見出されることからも分かるように、ここでは逆に「使う」ということが見えなくなっている。
そして、まだ私たちは物ともっと別様な(another)関係性を結べるのではないか。
私は、機能製品(道具)を芸術作品として見るべき、と主張しているのではない。道具としても、芸術作品としても、あるいはもっと別な、複数の関係性を結ぶことが、物と私たちを近づけ、親しくする(near and dear)。
私がなぜ今回「ゴミ」に着目しているかというと、一度その役目を終えた物であるゴミには用途がないからである。
私は、おもちゃ/遊び道具のような物の有する「決まった用途がないからこそ私たちが規定できる」(そのとき私たちは制作的になる)という価値や、ある物が別の用途にも使えるという「流用(appropriation)」*の価値を、ジャグリングと同じく、ゴミにも見出している。
また、私は、「何にもならない物が、何にもならないものとしてそこにある」ということの価値の可能性をひらきたい、ということを目論んでいる。
消費活動は、ゴミをつくり出す。
消費活動は、ジャグリングと接続することで、新たな価値をつくり出す。
消費活動は、ジャグリングと接続することで、豊かな私をつくり出す。
注釈
*「appropriation」の語は、既に美術芸術の文脈で用語として用いられるが、私は以下の文献での文脈を参照している。
ミゲル・シカール「プレイ・マターズ 遊び心の哲学」(松永伸司訳、2019)
以上。じんでした。
Twitter:@jin00_Seiron