手品の種明かしに関して、ちゃんたか氏の問いへの回答
2022年1月頃から、Twitterでちゃんたか氏(@chantaka42)のツイートを観測していて、手品の種明かしに関する問いを立てているようなので、私から回答する。
ちゃんたか氏の問い
例えば以下のようなツイート。
私が2018年末にTwitterの手品界隈が騒がしくて2019年に書いたnote「永遠に解けない魔法はあるか ~未完」をちゃんたか氏が読んでいるかは定かではないが、おそらく読まれていないのでその体で書く。が、もし読まれてない場合は一読をおすすめする。手品の種明かしに関して拙稿以上によくまとめられている文章を私は知らない。
また、ちゃんたか氏にもしその気があるなら、手品美学研究をやるといいですよ。動機のある研究は続くので。あと私が同志を増やしたいので。
1.種明かし賛成派?なにそれ考えてねぇーだけじゃねぇの?
『種明かし賛成派の人と喋った事ない いたら教えてほしいわ』とのことで、どうも、私、じんと申します。お喋りしましょう。
私は現時点では、種明かし賛成派の立場をとっているが、手品界隈で種明かしが原則タブーとされているということを除いても私の立場は特殊だと思うので説明する。
私の立場を正確に表すと、①美学的見地から、種明かし反対派の論拠に欺瞞あるいは誤謬があるのではないかと私は疑っていて、②手品の美的鑑賞の豊かさの観点から、私は種明かしを支持している。
『なにそれ考えてねぇーだけじゃねぇの?』に対しては、
「手品の種明かしに関して私が考えていることと考えていないことがあるが、私が考えてないことをちゃんたか氏が考えている可能性があるので、あなたが何を考えているか教えてほしい。」と回答しておく。
ちなみに、種明かし論争が終わらない理由は、多くの人が利益とか人数の多寡とか周辺のことには言及するのに、誰も論争の核となる”それ”を明らかにしたことがないからだと私は考えていて、私は”それ”と格闘するのに、美学を用いている。
2.種明かしをしてはいけない理由
『手品人は種を知ると感動するんですけど
非手品人はなんだそんな事かとショックを受けて手品を軽視するんですよ。
これ以上に不特定多数が見るtiktokやYouTubeで種明かししちゃイケナイ説明ってあります?』という問いに答えたい。
まず、整理しておきたいのは、ちゃんたか氏はここで「あらゆる種明かしはしてはいけない」という主張ではなく、「不特定多数が見るtiktokやYouTubeで種明かしをしてはいけない」という絞った主張をしている。
このように、「種明かし」に一定の限定をかけて、それ以外は”例外的に”許容するという立場は、種明かし反対派によく見られる。
ちゃんたか氏の立場は詳細は不明だが、少なくともここでは、「不特定多数が見るtiktokやYouTube」に限って種明かし反対派であると整理しておく。
そして、不特定多数が見るtiktokやYouTubeで種明かしをしてはいけない理由として、手品が軽視されるという理由を挙げている。これについて検討しよう。
「手品が軽視される」ためには、条件があるようだ
・「手品人」「非手品人」ってなに?
「手品人」は種を知ると感動し、「非手品人」はなんだそんな事かとショックを受けて手品を軽視するとのことだが、「手品人」/「非手品人」とは何か?
ここでいう「手品人」/「非手品人」とは演技者 / 鑑賞者の言い換えでもなく、鑑賞者をある条件で二つに分けているのだろうが、私はそのような二分論は手品界隈が内に持つジレンマを解決するために持ち込んだ区分であり、適切でないと考える。
「手品人」「非手品人」を問わず、種を知って感動する場合もあれば、そんな事かとショックを受ける場合もあると私は考える。それぞれの場合の条件をよく見る必要がある。(あるいはその条件分けが「手品人」「非手品人」の定義づけとなっているのだろう。)
ここでも、全ての種明かしが悪とされるのではなく、手品人への種明かしは擁護されていることに注意。
・解説が雑じゃなければいいのか?
『tiktokの解説なんて雑過ぎてより 軽視されると思うけど』とのことだが、解説が雑であればより軽視されるのであれば、反対に、より丁寧に詳細に解説すれば軽視どころか”重視”される、すなわち価値を高めることもできるのだろうか?
『「手品人」は種を知ると感動する』というのは、そのように、種明かしによってその手品の価値をより高く評価できると理解したことを指すのではないか。
上記のように、「手品が軽視される」には、どうやら条件があるようだ。
手品の種明かしが、
①不特定多数が見るTikTokやYouTubeで
②「非手品人」に対して
(③雑な解説で)
行われるとき、「手品は軽視される」ようだ。
この条件については検討が必要だと思うが、
ある条件下において、種明かしが手品の美的な鑑賞を妨げる(ある人にとってのその手品体験の価値を下げる)ということは私も同意する。
では、どのような条件であれば、手品体験の価値は損なわれないのか、つまり、手品の”適切な”鑑賞といえるのか。私はそれを「鑑賞の規範」の問題として捉えている。
「手品が軽視される」とき、手品の(美的)価値はどうなっているのか
先ほど、私は、「その人にとってのその手品体験の価値が下がる」という言い方をしたが、これは、「手品が軽視される」ことの悪さを、「ある鑑賞者にとってのその手品の受容価値が低減する」こととして受け取っている。
もし捉え違いであれば、ちゃんたか氏は指摘してほしい。
「手品が軽視される」とは、「ある鑑賞者にとってのその手品の受容価値」の問題だろうか。それとも、「その手品の価値」の問題にまで広がるだろうか。さらに、「手品というジャンル一般の価値」の問題にまで広がるのだろうか。
ある手品の種明かしによって、手品の価値はどうなるのだろうか。
少なくとも、ある条件下において、「ある鑑賞者にとってのその手品の受容価値」が低減することはあるだろう。
(※手品の種に関する知識のみ選択的に無視することで対処できるとする説もあるが、価値が低減したのは間違いない。これは「サスペンスのパラドックス」/「再読の問題」に関連する。)
ただ、そのことはその手品自体の価値を低減するだろうか。
鑑賞者にとっての受容価値は手品(作品)自体の価値と関連するため、影響は受けることになる。ある手品の種を全ての人が知ったとしたら、その手品の美的価値は低減したと言えるだろうと私も思う。
では、さらに、手品というジャンル一般の価値に影響があるかを考えよう。
ある一つの手品の種明かしが、手品というジャンル(「手品という芸術形式」と言ってもいい)の価値を損なうだろうか。
ある一つの手品について種明かしを受けた鑑賞者は「種を知ったこの手品みたいに、どうせあらゆる手品に種があるんだろう」とは思っても、他の全ての手品の種を具体的には知らない。それは一般に手品について人が予測している「何か種・仕掛けがあるんだろう」という態度と何ら変わらないものと私は考える。(※私はこの、鑑賞者が「謎」に対して持つ態度を悪いものだとは思わない。むしろこの態度は能動的鑑賞のために必要であり、”改め”などによって予測が裏切られることで手品の受容価値はより高まる。)
ただし、全ての手品の種を知ってしまえば、その鑑賞者にとって手品というジャンルの価値は低減するだろうし、全ての手品の種を全ての人が知ったとしたら、手品というジャンル一般の美的価値は失われてしまうだろう。
しかし、言うまでもなく、その現実的可能性は限りなく低い。
「手品が軽視される」ことの良い側面はあるのか
手品の種明かしは、「手品業界の発展のため」という理由付けで擁護されることがしばしばある。
私が考える種明かしをしてもいい理由は後述したいが、ここでは、「手品が軽視される」ことの良い側面について触れておきたい。(※種明かしすることの良い側面ではない。)
ちゃんたか氏も『僕は手品やる人が増えただけで 別に発展は感じられない』と述べているが、手品を演技者としてする人数、鑑賞者として見る人数が増えたことをどう評価するかは置いておくとしても、そのような手品人口の増加は、手品を”軽視”する者が増えたからではないか。
「手品を”重視”する」、つまり、「手品は〈私〉から離れた、遠い誰かが行う崇高な何かの儀式で、道具や手続きを必要とし、だから人生の中でもそう多くは目にすることはできない」と思うのではなく、「手品を”軽視”する」、つまり、「手品は〈私〉の身近にあって、ちょっと行動すれば私も見たり行ったりできるもの」と思うことによって。
あるものを「”軽視”する」ことと、それに対する振る舞いとを関連づけるには上述した分だけでは論の飛躍はあるが、「手品が軽視される」ことの良い側面があるのではないか、という一例としたい。もし良い側面があるとすれば、後は価値の天秤に乗せることになる。
と、いうことで、
『これ以上に不特定多数が見るtiktokやYouTubeで種明かししちゃイケナイ説明ってあります?』というちゃんたか氏の問いに対しては、「説明としては不足しているし、反論もあり得る。」というのが私の回答だ。
3.種明かしをしてもいい理由
種明かしをしてもいい理由を述べる前に、上のツイートに関して細かい点を指摘しておく。
・不特定多数が見れるものでなければいいのか?
ここでも、不特定多数へ向けた種明かしであることに言及されているが、特定少数へ向けた種明かしは良いのか。(※「不特定かつ多数」なのか「不特定または多数」なのかも注意。)
・『マジシャンが頑張ってるのに、種明かしYouTuberの方が儲かってるのに納得がいかない。』それは種明かしの悪さとどう関係しているのか?
楽して儲けることの悪さ、他人の労力に「フリーライド」することの悪さの話はあるが、それらは、手品の種明かしの悪さというよりも、より一般的な道徳的・倫理的規範の問題であるように思う。
ひとまず私は種明かしの問題と関係ないものとして理解する。
私が考える、種明かしをしてもいい理由
消極的理由:種明かしをしてはいけない理由がない
積極的理由:手品の美的鑑賞の豊かさが増える ←私の考える「発展」とはこれを指す
消極的理由:種明かしをしてはいけない理由がない
消極的理由としては、種明かし反対派の主張する論拠が明確ではなく、私がその論拠を検討するまでは反対派の主張には乗れない、という単純な理由がある。
もちろん、2.種明かしをしてはいけない理由で検討したように、反対派の主張は検討の余地が充分にありる。私は個人的な立場は賛成派であるが、反対派の論を整えるということも継続して行うつもりだ。
もし、種明かしをしてはいけない(美的価値に関わる)理由が明らかになれば、私は種明かし反対派が提示する否定理由と、賛成派が提示する肯定理由を総合的に検討してどちらが強い理由であるかを考える必要がある。
もし、種明かしが、ある(美的)価値を損ない、別の(美的)価値を生むとしたら、私は価値の天秤を用いることになる。
積極的理由:手品の美的鑑賞の豊かさが増える
さて、私が手品の種明かしに賛成する積極的理由は、種明かしによって、手品の美的鑑賞の豊かさが増えると考えているからだ。
ただし、注意したいことは、私は種明かし賛成派と言っても穏健な賛成派であるという点だ。私は「あらゆる手品の、あらゆる鑑賞において種明かしがなされるべきだ」という考え方を取っていない。私の立場は、手品の種明かしは禁止されるべきでないし、鑑賞時においてもその者が望むのであれば(※自律性の問題)行われてよい、というものである。
(※ここでいう自律性の問題とは、私たちは、自分が好むように作品の鑑賞条件を設定する自由がある、ということを前提に、その自由を害することの問題を指す。)
私は、手品の種明かしによって、手品の鑑賞の仕方が一つ増える(従来の鑑賞方法では生まれ得なかった手品の美的価値が一つ増える)、
または、手品の場面が手品の「継承」、手品の「鑑賞」以外に一つ増える(そこにおける(美的)体験が従来のものとは違った新しいものである)と考えている。
例えば、種を知っている手品師(cf.「手品人」)がしている手品の鑑賞は、種を知らない者がする鑑賞とはどのように異なり、しかし美的であるのだろうか。
もし、種を知っている手品師が手品を見ることが美的体験ではないのであれば、現実に多くの手品師がよろこんで手品の鑑賞者でもあり続けることが説明できない。
また、手品の批評において、種について言及することが不可避であるということも私が種明かしを肯定する具体的理由となっている。(「手品の場面の在り方」の問題と私が呼ぶものと関連する。)
注:私が論じない範囲は大きい
以下のツイートのように、様々な理由で種明かしに賛成する・反対しない主張はあるが、私は立場を異にするため、ちゃんたか氏は私の文章を読むときは、特殊な立ち位置の人を相手にしているということは注意してほしい。
以上を、私からちゃんたか氏への回答とする。
じんでした。