つれづれ:ヒトにおける搭載スペックとそっからのプログラミング

独身時代から塾講をしていて、育児でブランク挟んで再開したのが6年前。

集団指導したこともあるけど、基本家庭教師や個人指導ばっかりだったので生徒の傾向などを観察しながら、試行錯誤しながらも柔軟にやってきた、つもりではある。

それでもやっぱり、サンプル数たった1の自分の視野でしか考えていなかったんだなぁと思わされることが最近多い。それは自分の子という、最も近しい他人のリアルタイムを観察しているからに他ならない。

サンプル数たった2とはいえ、我が子がそろそろ勉強らしい勉強をする年齢になり、わからーんと言われたら手伝わされるんですが、多くは傾向通りながらも偶に「まじでか!」と驚くべき思考が入っていたりするわけです。


日常の生活でも、「好きなものには興味がわく→興味がわくと知ろうとする→知るためにテレビなり雑誌なりネットなりで調べる。」というステップを当然のものとして考えていたのですが、我が娘を観察していると「好き」は「好き」以上のなにものでもなく、だから詳しくなろうとかいう傾向は皆無でして、なんか私の中の常識がムッチャ揺さぶられたり。てかこれに関したら私が本気で勘違いしてた。上記のステップは普遍ではない。

他にも、「地味に練習せんとなっかなか覚えられへんで~」と言い続けててこれも真理だと信じてたんだけど、ある日突然入るタイミングもあるんだよね…

なので、今後はそういう経験も活かして、より相手に適した指導をできたらいいなと思う。


そんなことを教えてくれたうちのふたごは下記のような感じ。


娘はダントツで「空気を読む」のが上手い。切り替えも早い。その分「さっき泣いたカラスがもう笑った」的言動をするので情緒不安定気味に見えるが、トータルで見るとたぶん私よりも情緒は安定している。発想力や想像力が抜群で、特段何かの教科が得意というより、全部大きな取りこぼしなく、生活面も含めて安定した成長を見せている。


一方息子。

自閉気味の夫とADD気味の私のサラブレッドで、自分の心情についての理解がひどく疎い。抽象的なものの言語化が苦手。自分なりの理解をすると、それが現実と異なっていたときに憤る。注意力は散漫、興味があるものはとことん、特に何かに集中していると耳も閉じる。興味があるものに対しての記憶力は抜群な一方、百万回ぐらい言ってる「帰ってきたら手を洗え、箸と手紙を出せ」とか「床にものを置くな」とかは全く覚えない。道徳が猛烈に苦手だが、計算は二けた×二けたなら暗算でこなす。


以上のことからおそらく、搭載スペックはそれぞれ

娘→協調、創造、自己表現

息子→熱中、記憶、枠構築


であり、親としては搭載してるものはほっといても自分らで伸長させてってる感じがしたので、それを抑えない前提で非搭載型のものを搭載スペックを利用して構築するイメージで育ててはいるんですが、なんやかや彼ら自身が「これいるな」と思った瞬間に勝つことはできませんな…

また、「これいるな」と気付く瞬間、それをプログラム構築する形式も違ってて

娘は徐々に気づいて徐々に伸ばす(線形、リニア)

息子はある日気づいてまたある日伸ばす(閾値、スレッショルド)


よーこんなんが同時に出てきたなと思う日々です。

それにしても、親が頑張ってプログラミングしようとしても、こどもはある程度育ったら勝手に自分でプログラミング組んでいきよるから、人間ってえらいもんですね…

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