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「自己肯定感は、低くても大丈夫だよ」

私は自己肯定感がめちゃくちゃ低くて、そのことでずっと悩んできました。

今回は、自己肯定感が低くなった過去を書いてみます。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

私が歩き始めた日

1984年5月、会社員の父とパート勤務の母の間に私は誕生しました。
3,802グラムという大きなカラダで産んでくれたおかげで、両親や祖父母は『この子は必ず大物になる!』と期待してくれました。

でもね、お母さん、ごめんなさい…。

40歳になった今、168センチ、66キロという、思ったより小さくまとまってしまいました。

長男として、左利きは恥ずかしい

私は左利きです。

幼稚園に通っていた頃だったと思います。
とても厳しかった父方の祖母が、私に向かって言った言葉が、今でも耳に残っています。

「左利きは恥ずかしい。長男なんだから、ちゃんとしなさい!」

その瞬間、自分がどれほど特別じゃない存在だと思っていたのか、痛いほどわかりました。
祖母は、左利きに対して良い印象を持っておらず、右手を使うようにと強く言ってきました。
そのたびに私は何も言えず、ただ自分が間違っているような気がしていました。

「習字に通いなさい。いいわね!」

それが祖母の答えでした。

右利きを直すため、幼稚園から小学3年生まで習字教室に通いました。
筆を持つ手が震え、心の中では自分の左手を使いたくてたまらなかったのですが、祖母の言葉が頭をよぎるたび、私は右手で筆を握り直すしかありませんでした。
長男として、家族の中で”正しい”ことを求められることに、次第に耐えられなくなりました。
左利きというだけで、こんなにも自分を否定されている気がして、とても悲しい気持ちだったことを、今でも覚えています。

習字に通ったおかげで、文字を書く時だけ右手を使っていますが、絵を描く時も、箸を持つ時も、ボールを投げる時も蹴る時も、すべて左で行っています。

直らない左利き、さらに厳しくあたる祖母

左利きはどうしても直らず、祖母はますます厳しく接してきました。
あの頃、祖父母の家に行くのはとても怖かったことを覚えています。
私を見る祖母の視線は、とても冷たかったです。

父は母の味方になろうとはしなかった

家の中はいつも沈黙が支配していました。
祖母は、私を左利きに産んだとこを理由で母を責め、父はただ黙ってそれを聞いているだけでした。
母がどれほど傷ついていたのか、当時の私にはわかりませんでした。
でも、今になって考えると、その沈黙がどれほど母を追い詰めていたのか、痛いほどわかります。

「長男が左利きに生まれたのは、お前のせいだ!」

祖母の言葉に、母は何も言い返しませんでした。
ただ、目を伏せて無言で受け入れていました。
しかし、父は一度も母の側に立とうとはしませんでした。
何も言わず、ただその場に立っているだけでした。
母は、どんな思いでその光景を見ていたのでしょうか。
父の無関心が、母をどれほど孤独にさせたのかを想像するだけで胸が苦しくなります。
振り返ると、母がどれほど我慢し、どれだけ心が折れていたのかが今はわかります。
父は、母を守るべき立場だったはずなのに、彼女に寄り添うことなく、ただ黙ってその場を過ごしていました。
母はきっと、強くなければならないと感じていたのでしょう。
その中で、どれだけの思いを抱えていたのでしょうか。

父の暴力

父は、次第に私に暴力を振るうようになりました。

日曜日、2歳下の弟とゲームをして盛り上がっていると、昼寝を邪魔された父は不機嫌になり、突然私に平手打ちをしてきました。
私が「痛い!」と大きな声で叫ぶと、父は歯ブラシに練りワサビをつけ、それを私の口に押し込むこともありました。

その時、私は「パパも僕のこと嫌いなんだ…」と思い、とても悲しくて、心が痛みました。

父は、母にも暴力を振るうことがありました。
当時の私は、母を守る力がありませんでした。
「ママ、本当にごめんね」と、心の中で何度も繰り返しました。

母の決断

私が小学1年生の頃、学校から家に帰ると、台所で母がひとりで泣いていました。
「ママ、ただいま。どうしたの?」と声をかけると、
母は涙を拭きながら「かず、ごめんね。何でも無いよ。大丈夫だよ」と笑顔を見せてくれました。

私は母に「ママ、もう我慢しなくていいよ」と声をかけました。
この一言が母が離婚を決断するきっかけになったそうです。

離婚後に待っていた景色

離婚後、私たちの家は静かになり、母と私と弟は新たな生活を始めました。
その景色は私が思い描いていたものとは違っていました。
最初は、穏やかな日々が訪れると思っていたけれど、現実は違っていました。

学校から帰ると、朝まで確かにあったはずのテレビや、ビデオデッキ、冷蔵庫、洗濯機が家の中から消えていました。
父が昼間、私たちが留守の間にそれらを持ち去ってしまったのです。
母と私は、愕然としてその場に立ち尽くしました。その瞬間の衝撃は今でも鮮明に覚えています。

当時住んでいたアパートは、名義人であった父が解約してしまったため、大家さんから出ていくように連絡が来たことを、今でも覚えています。

私たちは母の実家に引っ越すことになりました。
母はキラキラと笑顔を取り戻し、ようやく安心して暮らせるようになりました。

おわりに

私は、父や祖母を恨んでいません。
父がいたからこそ、今の私が存在しているし、恨んでも何も良いことはないと思うからです。
こうした気持ちになれるのは、いつも明るい母がそばにいてくれたからだと思っています。

自己肯定感が低いことは、決して悪いことばかりでは無いと思っています。

  • 自身が無い分、目の前のことを一生懸命にやることができる。

  • 痛みがわかるからこそ、まわりに優しくなれる。

  • 何度も「ダメ」と言われてきたことで、謙虚でいられる。

「欠点」だと思っていることが、いつか「強み」に変わることだってあると思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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