何者シリーズその3 そもそもの基本姿勢

なんだか僕の思想に対するアンチテーゼのように思えるタイトルの記事を見かけた。別に何も引用して触れなくてもいいのだが、なんだか気持ちも晴れやかではないので触れてみる。

僕は人間なんて何者でもなくていいと思っている。
というか、「一人の人間」という存在でいいと思っている。例えば世界でただ一人が継承する特別な技術を持ち合わせた存在だとしても、そんなことよりも、そんなことの前に「一人の人間」でありたい。

何かを極めて何者かになったとして、それは「紙を切ることを極めたハサミ」と同じになってしまう。私は「紙を切るプロフェッショナルです」と宣言すれば、「じゃあ紙を切るときにはこの人に頼もう」ということなる。
人間じゃなくたっていいのだ。だから例えばAIに仕事を取られたら何者でもなくなる。ただ唯一自分にしかできないことなどこの世には存在しない。何かができることに依存しすぎると、それが失われたときには何の価値もなくなった完全に無意味な存在になってしまう。

今の世の中何者でもない人が多すぎるから何者かになろうとする人も多いわけだが、何者でもない人を悪く考えてしまうことが原因な気もする。
ニートだからクズ、無能だから居る意味がない、とか。資本主義経済がはびこる世の中だからかもしれないが、人間の"行為"が注目されすぎている。

だが人間の尊厳はその行為には表れない。自分にしか書けない文章など存在しない。自分にしか言えない意見などない。何事も同じ人間である以上誰でもできるし、なんなら人間以外の存在の方がうまくできたりする。
その人が歩んできた人生は唯一無二だとして、そこから生み出される行為に唯一無二は存在しない。
誰も考えられないことなんてない。たまたま世界初の発見や考え方があったとして、それはその人じゃなくてはならない理由ではない。アインシュタインの発見がアインシュタインじゃなければならない理由なんてない。
日頃いろんな創作物で特別な力やらで、代わりがいない唯一無二に何かができることがいかにすばらしいことか叩きこまれ続けているが、現実世界はそうではない。「何事も別に誰でもいい。」だからこそ完全な平和が実現される余地がある温かい世界なのだ。

誰かの意見を鵜呑みにしようが、自分で考えた生きた言葉だろうが、結局は記号として書き記される「ただの文章」でしかない。後者の方が道具的価値が高いのは分かるが、別にそんなことは些細なことだ。
バカでいいし、気取ったっていい。天才でなくてはならない決まりなんてない。
生きているだけで尊厳があるし、何をしたっていい。何もしたくないなら何もしなくていいし、もちろん極めたいことがあるなら極めてもいい。でもそれで「何者か」として扱われてしまうなら、それは極めて不幸なことだ。
あなたは人間ではなくて、「何かができる道具」になってしまったのだ。

要するにカントの目的の国みたいな話なのだと思っているのだが、果たしてカント専門家ではないから自分の考えがそれにならっているのかは分からない。だから自分の考えとして言ってみる。
何物にもなりたくない一人の人間の言葉でした。


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