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個人的なルッキズムは勝手だけど、社会的なルッキズムは悪質だと思う

古くから「人は外見か中身か」は議題としてド定番であるが、特に日本では顔面が整っているかどうか以上に外見が多くを担いすぎているなと思う。

このポストが賞賛されるように、昨今は外見(=外側)に人間性が出ることが正当化され、他者に外見を整える要求をすることが良しとされていることがしばしばある。

同様に、義務教育の期間は成績を評価するにあたりノートの綺麗さが用いられていた。
「授業の内容が身についているか」に「ノートが綺麗にまとまっていること」が評価されていた。
どの科目でも学力を美術で計ることが許されていた。

確かに外見を綺麗にすることは素晴らしいことだが、「人間性が出る」は行きすぎているなと思う。
なぜなら、他人の外見が気にくわない場合に人間性にすり替え批判することが許され、生きづらくなってしまうので。

誰にだって理想の外見があったり、好きな顔やファッションがあったりするのは良いけど、それを人間性と紐づけて評価することが良しとされていることには納得いかないなという話です。


ルッキズムとは

まず一般的にルッキズムとはなにか。ここでは以下を定義として扱う。

Looks(見た目、容姿)+ ism(主義)を合わせたことばで、「外見至上主義」などと訳されています。具体的には、見た目で人を判断したり、容姿を理由に差別したりすることです。

出典:「ルッキズム」って? “見た目”で悩む人に、今知ってほしいこと|18歳 成人年齢|NHK

ルッキズムの何がだめなの?

ルッキズムによる社会課題はさまざま。今回は「外見が外見以外の要素と紐づけられる(それが正当化される)凶悪性」について取り上げたい。

例えば、

  • 髪が短い男性は誠実だ

  • 金髪の人は素行が悪い

など。

容姿で人間性を評価する風潮がルッキズムが加速させ、優れているとされている容姿=正義の考えが助長されることで、生きづらい社会が形成されるのではないか。

ルッキズムによる生きづらい社会とは

容姿で人間性を評価することが正当化されてしまうとどうなるのか。
世間的に良しとされている容姿にならないと社会に適合できないことが当然になり、多くの人が自分の意思とは関係なく良しとされている容姿を目指すことになるだろう。

つまり「容姿をもとに人間性を評価しても良い」という考えが社会的に、カルチャーとして根付くことで多様性が失われ、格差が生まれ、いじめも生まれると考えられる。

さらに容姿が標準化されることで外れている人は社会での活躍の幅がせばまり、いじめの発生にもつながることだってあるだろう。

日本における過剰なルッキズムについて

特に日本では、上記以上に何かを評価する際に外見が重視されすぎではないか。

就職活動における過剰ルッキズム

例えば就職活動においては社会的に正解の見た目がある。

スーツを着て、男性は一定以上短髪で、露出部の毛は剃り、耳やおでこを出すことで、内定率が上がる(反していれば減点)という。
これから仕事をする上で能力を査定する際、面接や筆記試験だけでなく見た目で判断するまさにルッキズムの権化とも言えることが行われる。
髪色は当然黒でなければ働ける企業は少ない。

さらに、世間も対峙する相手が上記のような見た目でないと不信感を覚えてしまうようにプログラムされている。

「仕事のできる / できないは関係なく、見た目で評価に変動がある。」その代表例が仕事をする人同士、仕事をする人と提供される消費者の間で当然のように行われている。

「空気を読む」能力が高すぎるが故の過剰ルッキズム

ほかには、日本の文化として「空気を読む」というものがある。
空気を読むことが文化として根づいているが故、人の感情を決めつけてしまうことが多々ある。

まず、「空気を読む」とは、言葉に頼らずに状況や雰囲気から相手の意図や感情を察す(さらに、適切に振る舞う)ことである。

つまり「空気を読む」は相手が言葉にしていない感情や思いを決めつけることにより行われる。
この感情や思いを決めつける際の判断基準は(動的なものを含む)外見である。
さらには、1ターン目は空気を読んでいる側に主導権がある。
言葉を発していないのに勝手に感情や思いを決めつけられるのである。
思ってもいない感情が勝手に読み取られ、時には攻撃していないのに反撃を受けそれが正当化されることがある。

「この表情は嘘をついているだろう」とか、「この仕草は話を聞いていないだろう」とか。
「空気を読む」文化は助け合いや協調性を生む面では素晴らしいことだが、暴力的な側面も大きいと考える。

感想

以上のように、ルッキズムが当たり前になることが引き起こす問題についての考えをまとめた。

もちろん理想の見た目を追求したり、容姿が好きでアーティストやクリエイターを応援したり、容姿そのものを商材として活動したり、見た目を重要視するのは自由であると思う。

しかし、他人の人間性を見た目で判断して不当に扱う、見た目を理由に差別するなど、自分にとっての「正しい容姿」を押し付けることは良くないと思うし、自分の見た目を世間体に対応させるのはストレスが大きい。

本来十人十色な容姿も、社会によって標準化されることで他人と比べてしまい、自己肯定感が下がる原因にもなる。

見た目なんて見た目でしかないんだから、もっとみんなが好きな見た目で生きていける社会のほうが健康的だなと思う。

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