本の風景「ライ麦畑でつかまえて」 J・Dサリンジャー(1951年)
「Comin Thro' The Rye」
「ライ麦畑でであったらきっとキッスを交わすでしょう」スコットランド民謡で、ロバート・バーンズが歌詞をつけたとされる『ライ麦畑で出会ったら』である。日本では「夕空晴れて 秋風吹き 月影落ちて鈴虫なく 思えば遠し故郷の空 あゝ我が父母いかにおわす」(『故郷の空』)と全く違うイメージの歌詞となった。しかし、1970年ドリフターズが歌った「誰かさんと誰かさんが麦畑 チュッチュッしている いいじゃないか 僕には恋人いないけど いつかは誰かさんと 麦畑」(なかにし礼作詞)は不思議と原作のイメージに近い。サリンジャーは原曲「Comin Thro' The Rye」を『Catcher in the Rye』と読み替えた。
ライ麦畑でつかまえて
ホールデン・コールフィールドは16歳。この日「ぺンシー高校」を退学になった。これが5度目で、ニューヨークの自宅へ帰るところだ。ともかく彼は何もかも嫌だった。寄宿舎の同僚もクラブの奴らも教師たちも、奴らは皆「嘘の塊(かたまり)」で「インチキ野郎」の集まりだった。彼は荷
物をまとめ、汽車でニューヨークへ向かった。すぐには家に帰れないのでホテルを取った。友人も大人たちも、皆バカで嫌いなのに、誰かと会いたい気持ちを抑えることができない。町はクリスマスの音楽であふれ、天使の群れが十字架をもって、「神の御子は今宵しも」って気違いみたいに歌っている。もしイエスが見たらきっとヘドを吐くだろう。彼が唯一好きなのは小さい妹のフィービーだった。彼女に会うためこっそり家に帰る。フィービーが問う。「何もかも嫌いな兄さんは一体何になりたいの?」。彼は答える。「広いライ麦畑に小さい子供たちがいっぱいいて、僕はあぶない崖の淵に立って、転げ落ちそうになったらその子をつかまえる」、そんな人になりたい、と。両親が帰ってきたので、こっそり家を出る。ともかく彼は歩き続けた。そして「どこか遠くへ行ってしまおう」と、決心するのだった。
彼が話したかったのはこれだけ。
J.D サリンジャー
サリンジャー(1919~2010年)は、ニューヨークで、貿易会社を経営するユダヤ系の父とアイルランド系でカトリックの母という複雑な家庭で育ち、反抗的な少年時代を送った。退学を繰り返した高校時代を経て、20歳でコロンビア大学に学び、この頃小説家を志した。1942年、23歳の時太平洋戦争が勃発、サリンジャーはアメリカ陸軍に入隊、1944年フランス、ノルマンディ上陸作戦で第四歩兵師団に配属された。戦闘は連合軍の勝利で終わるが、サリンジャーの部隊ではおよそ三分の二以上の兵士が戦死した。更にパリ解放後、彼は、ドイツダッハウ収容所に派遣され、ホロコーストによる数百体の焼死体を目撃したのだった。この頃ヘミングウエイと出会っている。除隊後1950年に『ライ麦畑でつかまえて』を発表、記録的なベストセラーとなった。しかしその後、九作の短編小説を発表するが、マスコミ、出版社等とのトラブルが絶えず、ニューハンプシャーに引っ込んでしまう。周囲を2メートルの塀で囲んだ家で、作品の発表も止める。その後は伝説の中で語られる。
へミングウエイとサリンジャー
『ライ麦畑でつかまえて』でホールデンは、『武器よさらば』を「あんなインチキな本」「僕には理解できない」と、語る。サリンジャーが戦中に書いた『最後の休暇の最後の日』では「もちろんこの戦いは正しいと信じている。…だけど…どんな形であれ、決して戦争のことを話してはならない、…。死者はそのまま死なせておけばいい」と、記す。ヘミングウエイは志願兵として第一次大戦、スペイン戦線、第二次大戦の戦場で自らを危険に曝し、戦場の残酷さ虚しさを描き、ハードボイルドリアリズムと呼ばれた。しかしサリンジャーは違った。彼が戦場に見たのは、連綿と連なる兵士たちの死であり、無数の焼け焦げた死体であった。戦場は言葉ではなかった。『老人と海』(1952年)が消えゆく世代を、『ライ麦畑でつかまえて』(1951年)がやがて登場する若者社会を描いた。まさにアメリカ社会の新旧交代を象徴した。その後、ヘミングウエイは自殺し、サリンジャーは世間から遠ざかる。「インチキ野郎」と吐き捨てた彼の言葉の、その計り知れない闇は深い。(大石重範)
(地域情報誌cocogane 2025年2月号掲載)
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