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本の風景「モオツァルト」小林秀雄(1946年)


批評家の表情

小林秀雄


 「小林秀雄」(1902~1983年)の講演を聞いたことがある。題目や講演内容は忘れてしまったが、酔っぱらって電車(汽車?)に乗り、客席の間を走りながら小便を流し、最後にデッキで放出した、その解放感を熱心に喋っていたのを思い出す。聴衆は真剣に聞いていて、彼のそのいたずらっぽい表情は忘れられない。
過日、新聞に『小林秀雄 没後40年』の記事が、「日本精神史の代表格」との副題をつけて掲載されていた(『読売』2023・7・18)。あの講演が、実に半世紀以上も前だったことに気づいた。記事では「美を最も深く表現した批評家」(新保祐司)と、記してあった。

モオツァルト

 大阪の道頓堀の雑踏の中で「突然、このト短調シンフォニーの有名なテーマが頭の中で鳴った」。それは小林秀雄の乱脈な放浪時代だった。 神童と呼ばれたモオツァルトは、6歳のときから父親の野心のもとで、ヨーロッパ中を演奏旅行によって連れまわされた。それはまるで「曲馬団で酷使される神童」だった。彼の日々の姿を義妹は語る。「彼はいつも機嫌がよかった。しかし一番上機嫌な時でも、心はまるで他所(よそ)にあるという風であった」と。「あきれる様な冗談」「ふざけた無作法」「俗悪な所作」などに溢れた日常だった。しかし、モオツァルトは語っている。「音楽の構想は、奔流のように鮮やかに姿を現し・・・」心のうちに湧きあがる。そして、「周囲で何が起ころうとも、私は構わず書けますし、鶏(にわとり)の話、家鴨(あひる)の話、或いはかれこれ人の噂などして興ずることもできます」と。小林は問う。「どうしてこんな正確な単純な美しさを現すことができるのだろうか」と。たとえば「聖歌」。彼には、教義も信条も信仰さえも要らなかった。まどうことのない不思議な力が天井の音楽を奏でているのだった。「愚劣な生涯と完璧な芸術、この驚くべき不調和」。まさに、その傷口に彼の「悲しさ」があり、「美しさ」があった。「彼は泣く、しかし「人々が泣き始めるころには、彼は笑っている」と、小林は語る。モオツァルトの美しさは、悲しみの表現なのだ、と。「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙のうちに玩弄(がんろう)するには美しすぎる。・・・『かなし』という言葉のようにかなしい」と。

小林秀雄と中原中也


汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる汚れちまった悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
     『山羊の歌』

中原中也(1907~1937年)の詩を、小林は誰よりも早く、誰よりも高く評価していた。  中原は17歳の時には京都で3歳年上の「長谷川泰子」と同棲していた。翌年、二人は上京し、大学生だった小林秀雄と知り合う。小林は語る。「中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎みあう事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、彼女と私は同棲した」(『中原中也の思ひ出』)と。そして二人は絶交したが、「中原が突然現れ、たださういう成り行き」の日々だった。その後、小林は川端康成らと『文学界』を創刊し、名実ともに文壇の中心として活躍する。一方、中原は相変わらずの「売れない詩人」だった。そして子供を失い、自身も狂死する。30歳の死だった。

涙は追いつけない


 小林は「モオツァルト」の悲しみを「『かなし』という言葉のようにかなしい」と表現した。フランスの詩人ゲオンの「tristesse allante」を引用し、「かなしさは疾走する」と訳している。しかし、「allante」は「ゆっくり歩く」の意味で、この語は「流れゆく悲しさ」とも訳される。しかし、小林は「疾走する」と記した。それ故にこそ「涙」は追いつけないのだ。モオツァルトの道化じみた生き様は、「汚れちまった悲しみ」に響きあう。(大石重範)

(地域情報誌cocogane 2023年12月号掲載)

[関連リンク]
地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)


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