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本の風景「チャタレイ夫人の恋人」ロレンス(1928年)

ペンギンブックス

   学生時代に生活していた学生寮は、四人部屋が4室の小さな和やかな寮だった。ある日、同室の先輩が一冊の本を「これ読んだら面白いよ」といって貸してくれた。それはペンギン・ブックスの『LADY CHATTERLEYS 
LOVER』だった。英文の文庫の数か所は、繰り返し読んだかのように手垢で黒ずんでいた。僕の手に負える代物ではなかった。その頃、日本語訳『チャタレイ夫人の恋人』は、多くのページが「××××」で隠されていた。彼はその後九州のある大学のドイツ語教授となった。

チャタレイ夫人の恋人

 コニーはクリフォード・チャタレイ侯爵と結婚し、「チャタレイ夫人」となった。蜜月の一か月後、彼は戦場に向かい、半年後にずたずたに負傷、闘病の後、回復後、彼の下半身は永久に麻痺したままだった。二人はクリホードの故郷ラグビー邸で領主として暮らす。クリホードは文筆生活に入り、コニーは献身的に彼を支える。しかし、コニーは、日々繰り返されるその生活や貴族たちの繁雑な交わりに、「気の狂いそうな不安」と憂鬱に囚われていく。そして森を彷徨うことが日常となる。そんなある日、森番のメラーズが裸で身体を洗っているのを垣間見る。それは「肉体そのもので・・・ショックを子宮で」受け止める。その場を逃げ去ったコニーだが、やがて二人は結ばれる。「彼は彼女の中へ入っていった。彼女の柔らかい静かな肉体の中へ。そして、妊娠。クリホードは、相手が森番のメラーズと知って激昂する。彼にとって、下層の人間は人ではなかった。メラーズは追われ、コニーはラグビー邸を去る。「これが本当の自分自身の在り方だった。」

××××

 「雨音のほか何も聞こえない小径のうえに横たえ、激しく短く自分のものにした。」森小屋から雨の中に飛び出したコニーをメラーズは激しく抱く。作品中最も美しい場面である。しかし、1950年出版の「伊藤整」訳では、この場面の前後、相当ページは××××に覆われている。全体では12か所70~80ページが××××となっている。その翌年、訳者の伊藤整は猥褻文書配布の罪で起訴される。いわゆる「チャタレー裁判」である。「芸術か猥褻か」マスコミの格好の話題となり、多くの文学者が法廷で伊藤整を擁護した。最高裁判決は、訳者は無罪だったが、出版社は「赤裸々な性交渉場面のある小説を商業主義販売した」として有罪となった。以来完訳本の出版はずっと後年になる。今、完訳を読んでみると、その内容はごく普通で、その喧噪は嘘のようである。しかし当時、チャタレー裁判は、野坂昭如『四畳半襖ノ下張』や大島渚監督の映画「愛のコリーダ」等、各分野の作品の公開に影響を与えた。

放浪の日々

D.H.ロレンス

 D・Hロレンス(1885~1930年)はイギリスで生まれ、小学校の教員をしながら詩や小説を書いていた。そして27才の時、クリホード大学の恩師の妻「フリーダ」と駆け落ちする。彼女はドイツ人で、彼より6歳年上だった。時代は第一次世界大戦前夜であり、二人はスパイの嫌疑などもかけられ、以来、死に至るまでの18年間続いた二人の放浪生活が始まった。
ロレンスは、女性は性の解放こそ真実の自我に至ると考えていた。女性は「犬のようにセックスだけに熱中する」男たちに譲歩し、支配されるのではなく、自ら、より純粋で自由な性を求めるべきである、と。フェミニズムの先駆けであった。一方、この考え方は「英国純潔同盟」などのキリスト教団体から徹底的な批判と排斥を受けた。彼のそれぞれの作品は、発表の都度高い評価を受けるが、そのほとんどが発禁処分を受けた。生涯妻と共に世界中を放浪したロレンスは、フランスで死す。44才だった。(大石重範)

(地域情報誌cocogane 2024年3月号掲載)

[関連リンク]
地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)


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