出来事の意味や価値を決めるものとは。
私は一昨日の講演会のまとめとして、
上記のスライドを用い、その重要性について力説したのだが、
これは自分にとっての真実なのだと心から実感している。
昨日投稿した講演会の報告記事では、
やり切った感があったことを述べたが、
まあ、初回の講演会というのはまだ手探り部分もあり、
自分のテンションほどは会場のテンションは高くない。
講師と受講者、このテンションに開きがあるのは至極当然のことだ。
これは受容しなければならない。
とはいえ、頂いたフィードバックの内容は、
全てが肯定的な評価というわけではなく、
匿名性ゆえの無関心さや残酷さというものもあり、
それらが少し心に突き刺さっていた。
「ご機嫌を自給自足して他者におすそ分けすることを
当たり前にしていきたい。」
そんな想いで臨んだものの、頂いたフィードバックの中には、
かなりの不機嫌さを発していたものもあり、
カウンターパンチを食らった感じである。
だから実を言うと、多少モヤモヤしていたのだ。
しかし昨晩、このnoteで報告させて頂くことで、
早速とても温かいメッセージを頂き、
やはりやってよかったと思い直すことができた。
そして今は、このことを有難くかみしめながら、
次の講演への原動力として前を向いて進み始めている。
実は、今週土曜日にも、講演の機会がある。
といっても今回は模擬講演となり、いってみれば試験のようなもの。
というのも、私は、県が行っている生涯学習講座のための
講師登録を申請していたのだ。
県の認定講師として登録されるには、
模擬講演を行い、その審査に合格する必要がある。
その試験日が今月11日に行われるという次第だ。
なので今朝は、この模擬講演の準備に取り組んでいたのだが、
noterの方達からこれまで頂いてきた嬉しいコメントの数々を
想い出せたお陰で、この1000日計画をやり遂げようという意思が強化され、
それとともに、次回公演に向けてのアイデアが次々と舞い降りてきたのだ。
冒頭のスライドのとおり、
出来事の意味や価値は、「注意の向け方」と「解釈の仕方」で決定される
と私は考えている。
だから、講演終了直後、自分が感じたモヤモヤに注意を向けずに、
自分がやり切れた喜びに注意を向けたのだ。
誰がなんと言おうと、この実感は私のものだ。
外部の反応に惑わされて放棄してはいけない。
この実感を自分の中に留めて固定させるために
昨晩は先日の記事を書きあげ、投稿した。
そして、とても有難いコメントを頂き、そのお陰で、
自分がやったことの解釈をより肯定的なものにすることができたのだ。
だからこそ、次回講演のために更なる意欲を持って取り組むことが
できているのだが、
面白いことに、あの時のモヤモヤが大事なヒントとなって、
更なる気付きをもたらしてくれたのだ。
だから、冒頭に挿入したスライドの内容は、
まさにそのとおりなのだと心から実感している。
更にいえば、出来事の意義や価値は、
後で振り返ってみて気づくものというよりも、
予め「この出来事は意義と価値があるものだ」と決めておけば、
脳の検索機能が「なぜならば・・・」とその根拠を次々と探し出してくれるものではないかと考えている。
だから、この講演はとても意義深く、価値のあるものなんだと
私が宣言すればいい。
そしてこのことは、これから証明していけばいい。
これまでコメントを通じて、私に元気をくださっているnoterの皆さん、
いつも本当にありがとうございます!
顔を見たこともない、オンラインだけで繋がっている者同士であっても、
温かいコメントというのは、確かに誰かを元気にしてくれる
尊い「ハタラキ方」だと実感しています。
そして私は皆さんを
「ご機嫌の自給自足仲間」だと思っています。
1000日以内に全国の各地にいらっしゃる皆さんと
講演会でリアルでお会いすることを実現させて頂きます。