言葉のプレゼントを有難く頂き、自分の力にしていく
「自己肯定感」という言葉を最近よく耳にするようになった。
異口同音に「自己肯定感が低いので、高くしたい」という話しを
聴くことが増えたので、私の中にも「自己肯定感」というワードは
意識されるようになったのだ。
自己肯定感というのは、注意の向け方と解釈の仕方、
によっていくらでも高められるのだと考えている。
多くの人は、自己肯定感があまり高くないようだ。
おそらく、「優れた他者(有名人など)」との比較が原因だろう。
メディアで取り上げられ絶賛されている有名人は確かに
完全無欠に見えるし、メディアはそういう見せ方をするので
余計に素晴らしく思えてくるものだ。
現代社会は、基本的には「目に見える価値」を重視しているので、
収入、偏差値、身長、支持数など数字で表しやすいスペックに基づいた
競争原理が働きやすい。
だからこそ、「優れた誰かとの比較」というものをついやりがちであるが、
その結果、「自分なんて・・・」という劣等感に陥り、
それが自己肯定感の低さに繋がってしまう。
私はピラミッド構造というのは、どうも居心地が悪い。
それを最初に感じたのは、高校時代だ。
私がいた高校には、
偏差値至上主義的な価値観に染まった人間が少なからずいて、
偏差値の高低によって人を序列づける風潮が教師にも生徒にもあったのだ。
そこでは、医学部に進学する生徒が多かったのだが、
その理由は「偏差値が高いから」とか「収入が高いから」というもので、「困っている人を助けたいから」といった志を持つ者は少数派だったようだ
学校側も、医学部進学者数というのは「学校のブランド価値」にも
直結するので、医学部進学を推奨するような雰囲気が少なからずあった。
私は、あからさまなその雰囲気に入学早々嫌気を感じて、
偏差値に基づくピラミッド構造から抜け出ようと、
早くも「偏差値競争には参加しない」という選択をし、
受験勉強だけの授業を聴かなくなったのだ。
(その代わりに受験とあまり関係のない話しはよく聴いていたが)
ただ、幸運にも出会えた、人を見た目や数字で判断しない
素晴らしい友人達との交流の中で
たのしい高校生活を送ることができたのだ。
私は勉強こそ全くしなかったが、割と生活態度は真面目で
礼儀にも気を使っていたので、友人達はそこを認めてくれたようだ。
それが私の自己肯定感を保ってくれたので中退せずに済んだのだと思う。
また、教師の中にも、
「君は掃除の時間だけは他の生徒よりも真面目にやっているので
見どころがある」といってくれる方もいて、
それもまた、高校生活を支えてくれる力となっていた。
もし、私が偏差値至上主義の価値観に飲まれ、
ピラミッド構造の中で競争原理に組み込まれていたら、
その後の人生でも、数字だけで人を崇めたり見下したりする
虚しい競争の中でおそらく精神を病んでしまっていただろう。
あの時、全く勉強せずに、最初から偏差値競争に参加しなかったことは、
教師や両親には、不安材料でしかなかっただろう。
今思えば、確かに未熟で短絡的な意思表示のやり方であり、
勉強から逃げていた部分もあったのだが、
歪んだ競争原理の中で自己肯定感を落とさないための
あの頃なりの自己防衛策だったのだと理解している。
高校時代は、自ら競争から離脱したとはいえ、
成績最下位者というのは屈辱的な扱いを受けることがあった。
それでも自己肯定感をそれほど損なわずにいられたのは、
「礼儀」や「人情」といった数値化されない部分を
重視していたからだったのだと思う。
そして、自分が大事にしている資質を認めて褒めてくれる人がいて、
その人達がくれた言葉というのがとても有難かったのだ。
今にして思うと、言葉はプレゼントなんだとつくづく思う。
成績が悪いということで、偏差値至上主義の人間からは、
心ない言葉を浴びることもあったが、同じ高校内であっても
心ある言葉をかけてくれる人もいる。
言葉というのは、凶器にもなるが、プレゼントにもなる。
実に奥行のあるものだと思う。
生きていると色んな言葉にさらされるだろうが、
他者からの自分への評価というのは、
それが自分を傷つけるものである場合は、
それを発した者がどんな価値観、ピラミッド構造に
囚われているかを踏まえてみた方がいい。
そこに温かみがなければ、おそらくそれは、
その人が不幸だから発せられたものだからと解釈するのが妥当である。
なので、その人に対しては「課題の分離」を行って、
その人が発した言葉についても受け取り拒否をすればいい。
思えば、高校時代に心ない言葉を放ったあの同級生は、
実は医学部に合格するために血尿を出すほどの猛勉強をしていたそうで、
それゆえに全く勉強しないのんきな私を観て苛立ったのだと理解できる。
つまり、受験勉強のストレスという彼の個人的な問題を、
受験と距離を置いている私にぶつけるというお門違いなことだったのだ。
だからこそ、心ない言葉に引っ張られて自己肯定感を下げるのは止めるべきだ。そんな暇があったら、温かみのある言葉だけをプレゼントとして
有難く受け取り、自分の力として活かすことだけを考えればいいのである。
言葉をプレゼントとして受け取り、自分を成長させながら、
自分もまた、だれかに言葉のプレゼントを行っていくこと。
それが、自己肯定感を高めるコツなのではなかろうか。
改めて、「自分は何に注意を向け、どう解釈するか」ということを探求することの重要性を実感している。