出来事、感情、本質は別個のものである。
モヤモヤする出来事と、自分の感情と、自分の本質は
それぞれ別個のものだと実感する今日この頃。
時間価値創造では、
「体験に向き合う→学びを得て活かす→そのプロセス自体を愉しむ」
というサイクルを拡大再生産的に回転していくことを基本コンセプト
としているが、
提唱者の私がこの理論を実証しないことには話しにならないため、
ここ数年、ひたすらこのサイクルを回すことに注力しているのだが、
最近ようやくモヤモヤした出来事との向き合い方が上達した気がする。
やはり大事なことは、自分のモヤモヤと向き合うことだとつくづく思う。
モヤモヤとは、とても重要なヒントを含んだ現象であり、
そこからヒントを抽出し、自分の抱えた問題を解消するために
活かすことは、とても愉しい。
例えていえば、川で砂金を採取するようなものかもしれない。
ただ、モヤモヤと向き合うことで得られる価値をタイパやコスパで
考えると、砂金採取の比ではないくらいに高い。
ただ、モヤモヤと向き合うには多少の勇気が必要で、
仕事や日常の雑事で疲れ果てた人にはこの勇気を捻出することは
難しいのかもしれない。
だからこそ、自分のエネルギーを低下させる要因を把握し、
それを止める習慣化の工夫をすることも併せて必要だと考える。
その中でもすぐに出来る事は、食べ方を変える(良く噛むなど)や、
體を緩める時間を持つなどであるし、それ自体が自分と向き合う機会にもなるし、「チリも積もれば山となる」で気が付けば、余力が生まれるだろう。
このように書くと、「向き合う」というのはとても地味で、
いつ報われるか分かりにくい面倒な営みのように思えるが、
実際やってみるとその真逆で、
これをやらない方がむしろ勿体ないと思えるほどである。
なぜならば、一つのモヤモヤを放置してしまうと、
それが心の中で澱のように沈殿し、自分の活力を低下させ、
また別のモヤモヤと遭遇した時に、より向き合いにくくなるからだ。
その反対に、モヤモヤと向き合えば、そこからヒントを得ようと得まいが、「逃げずに向き合えた」という事実は大きな実績として残るので、
自己肯定感を高めることに繋がる。
因みに、向き合う時間はほんの数秒でもいい。
例えば、向き合うためのウォーミングアップである
深呼吸や脱力を意識するだけでもいい。
それだけでも、「あり方の微分係数」をプラス化することに繋がるし、
それを繰り返していくことで、向き合うことに慣れてくるからだ。
冒頭で、「モヤモヤする出来事と自分の感情と自分の本質は
それぞれ別個のもの」だと書いたが、その理由はまさにこれである。
モヤモヤを放置したり、そこから逃避してしまうと、
その負い目や負債感覚が自己肯定感を下げてしまう。
だからモヤモヤと自分の感情と自分自身が一体化するかのように
感じてしまうが、
向き合うことで、少なくとも「向き合えたという実績」は残るし、
そこから何らかのヒントを得れば、知的な興奮とともに自己肯定感を高めることができる。
この「今までの気分の流れを変えることができた」という実感こそが、
「モヤモヤする出来事」と「自分の感情」と「自分の本質」を
一体化させずに分離させる役割を果たしているのではないか。
ともかく、騙されたと思ってまずは試してみることで、
モヤモヤと自分とを分離できることを実感して欲しい。
まずは「それが可能だ」という未来の状態をイメージして
先取りするのもいいかもしれない。
映画マトリックスでとても象徴的なあのセリフ。
「速く動こうと考えるな。速いと知れ」」
というのは、こういう時にも応用してみたい。