物語の構造を活用する~傑作漫画「どろろ」の応用~
私の知り合いに、幼少期に映画「スターウォーズ」を観て、
凄まじい衝撃を受け、それがきっかけで映画製作の道を志し
大学時代に渡米した人がいる。
当時、彼からその逸話を聴いた時、
一つの作品がその人の人生に与える影響力の大きさに驚いたものだった。
しかし、誰しも「自分の人生に強く影響を与えた作品」
というのがあるのではなかろうか。
私自身、その作品を読んだ後、
しばらく放心状態になるくらい衝撃を受けたものがあった。
それは何かというと、手塚治虫の漫画「どろろ」である。
私が高校3年の時、兄がこの作品を4巻まとめて買ってきたのだが、
最初は何気に手に取ったのが、のっけから主人公百鬼丸の設定に、
「なんだ、これは!」と一気に惹きこまれ、
気づけば全巻を読んでしまったのである。
最初は人の形すらしていない状態で実の父親から捨てられた主人公。
立派な技術を持つ医師に助けられ、
人間らしい見た目になる義体を与えられ、
訓練によってそれを自在に駆使できるようになる。
自分の體は48の魔物によって奪われたこと。
その魔物と対決し討ち取ればそれを取り戻せることを知る。
魔物を倒すために剣の修行をはじめ、達人級に上達する。
もう一人の主人公どろろとの出会いによって、展開される新たな人生。
最初は、百鬼丸のニヒルな感じや五体不満足からの剣の達人への成長っぷりに痺れ、その格好良さに惹きつけられたのだが、
今思うと、私が受けた衝撃の本質とは、
「どうしようもないハンデを創意工夫によって克服し、
自分自身を取り戻していく」という物語の部分ではないか。
そもそも、読後に放心状態に陥るほどの衝撃を受けたのは、
何か自分の人生にとって関係があるからではないか。
そう考えると、漫画としてのストーリーだけでなく、
自分の人生にもそのストーリーのポイントを見立てることができそうだ。
そこで着目したのが、
①「創意工夫によってハンデを克服すること」、
②「「魔物」と対決すること」、
③「本来の自分を取り戻していくこと」
という3つの部分である。
まず一つ目の
「創意工夫によってハンデを克服すること」
について。
百鬼丸は生まれた時には既に48もの體のパーツを奪われていたため、
人間の形を成しておらず、歩くことも話すこともできない状態であった。
これは途方もないハンデであるが、それを補ってくれたのが、
育ての親である寿海が与えてくれた義手や義足である。
どろろという物語におけるこれら義体とは、
「苦手意識を解消するための創意工夫的な発想」
だと見立てている。
「自分にはそれを上手くやれる能力が無い」と諦める人が多いし、
私も同様に多くのものを諦めてきた。
しかし、百鬼丸のように、圧倒的ハンデがあっても、
剣の達人になるほどの逆転現象は、創意工夫によって起こせるはず。
私はそのような逆転現象に強いロマンを感じてしまう。
あの時の衝撃には、そんなメッセージが含まれていたような気がする。
だからこそ、「自分を活かす」という目的意識を持とうと思ったのだ。
その意識があれば、それに適った創意工夫の方策と出会うことができるし、
自分には不可能だと思い込んでいたことが、できるようにもなる。
すべては、「注意の向け方と解釈の仕方」という「あり方」によって変化する。これは、百鬼丸に与えられた義体と彼が会得した剣術に匹敵するかのような世の中を渡っていくための武器となる。
次に、「「魔物」と対決する」ということについて。
生まれる前の百鬼丸から、體の各部分を奪い取ったのは48の魔物達である。
一方で私は、五体満足で生まれ、恵まれた環境の中で育ってきた。
にも関わらず、本来ならチャレンジできたであろう様々なことを諦めてきた。
それは、自分の中にいる「制限を加え、ハンデをつけたがる意識」というものの仕業ではなかったのか。
つまり、それは百鬼丸の體を奪った魔物のようなものだと言えよう。
ならば、その魔物(制限意識)と対峙し、その意識を解消すれば、
本来の自分の可能性を取り戻すことができるのではないか。
どんなに、できない状態を克服しうる創意工夫を編み出しても、
その大元となる「魔物」と対峙しなければ、克服することはできないだろう。
そのためにも「向き合う」という目的意識を持とうと思ったのだ。
そして、自分にとっての魔物は、日常の至るところに潜んでいる。
自分の心がざわつく場面というのがまさにそれである。
まずは、勝てそうな魔物と対峙し、徐々に強くなっていけばいい。
ただ、注意点としては、魔物は攻撃して倒すのではなく、
「向き合って和解する」という感覚がいいのではないかと思う。
弁証法的に昇華していく感じとでもいおうか。
魔物に対する解釈としては、
「消すべき厄介者」ではなく、
「踏まえて乗り越える対象」の方が、
しっくりくるかもしれない。
3つ目の「本来の自分を取り戻していくこと」であるが、
自分を活かすという目的意識でもって、
自分の中にいる魔物と向き合い、克服することで、
「自分本来のパーツ」を取り戻し、
自分本来の人生を愉しめるようになっていく。
そのようなことではないかと考えているが、
もし最初から、自分本来のパーツが揃っている状態だと、
「自分を活かすための創意工夫」も出来ないし、
「困難に向き合う」という勇気も発揮できないし、
従って、生身の存在としての生命の充実感を愉しむこともできなくなる。
そういう意味では、自分の中にいる魔物というのは、
「自分本来の人生という物語」を紡ぎあげていく上では、
必要不可欠な存在なのかもしれない。
「この魔物の御蔭で、今の自分がいる」と感謝し、
今の自分と過去の出来事とを統合できれば占めたものだ。
そうやって初めて、自分の物語がスタートしていくのだ。
自分に大きな衝撃を与えた物語というのは、
誰しもあるモノだと思う。
ならば、自分の人生を面白くするためのストーリー作りの参考として、
その物語に向き合ってみてはいかがだろうか。
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