「ザルで水を掬う」のは止めた方がいいと思う
高校時代、よく教師達が
「四当五落」と言っていた。
これは「睡眠時間が4時間以内なら受験に合格するが、
5時間以上ならば落ちる」という意味だ。
この年には栄養ドリンクであるリゲインの
「24時間戦えますか」のCMが大ヒットしたものだ。
こういう猛烈な頑張りを励行する風潮が当時には蔓延していた。
そういえば、高校の受験指導の教師は、
こんなことも言っていた。
「受験とはまるで「ザルで水を掬う」ような地道なものだ。
だからすぐに成績が伸びなくても諦めずに頑張れ」と。
諦めずにコツコツと不毛にも思える努力をやり続けること。
それが当時の主流の美学だったように思えるが、
同級生の中には、第一志望の超難関大学に合格するために、
血尿を出しながら頑張る者もいたと聞く。
しかし当時から私は「がむしゃらに頑張る」ということが
どうも苦手で、このような根性論にはとてもついていけなかった。
そんなことよりも、競争の枠外でもそれなりに生きていける方法が
ありそうな気がしていたのだ。
そんな私が、今つくづく思う事は、
やはり「ザルで水を掬う」というのは止めた方がいいということだ。
水を掬う道具や方法はさまざまなものがある。
それにも関わらず、深刻な顔をして報われにくいスタイルに執着して
頑張り続けると、いつか心身を病んでしまうのではないか。
大事な事は、
「自分が水を掬うのに用いている道具は穴だらけのザルである」
と気づくこと。
そして「本当にザルでしか水を掬えないのか?」
と問いを持つことなのだと思う。
仮に、今はそのザルしか水を掬う手段がないのであれば、
一旦掬う作業を中断し、そのザルのスキマを塞ぐことを
やった方がいい。
つまり、現状と理想との間に大きなギャップがあって
不平不満があるのなら、一度その状況や自分自身に向き合って
みた方がいいのではないかということだ。
「向き合う」ということは、
「使っている道具が実はザルだった」
ということに気づくキッカケになる。
そしてそこから「ザルの穴を塞ぐ」という「活かす」に
繋がるし、そのプロセス自体やこれまでと違った結果が出せる
ようになれたことを「愉しむ」ということにも繋がるだろう。
競争の世界観が過激になってしまうと、
自分以外の参加者を全て敵と見做し、狭き門をくぐるための
サバイバルレースのようなものになってしまう。
その世界観だと勝利者すらも報われにくい。
でも、「向き合う、活かす、愉しむ」のパラダイムに移動すれば
「自分以内は全て味方」にすることができる。
高校時代の成績争いレースや大学受験では、
早々に競争の枠組みからコースアウトした私だが、
超就職氷河期だった時の熾烈な公務員試験においては、
「向き合う、活かす、愉しむ」のスタンスで試験勉強に取り組んだお陰で、十分な睡眠と運動の時間を確保しながら、
健やかに愉しく難なく合格することができたのだ。
だから、「ザルで水を掬う」以外のやり方を
自分で自由にデザインすることができるのだと強く信じている。