震災と10年
2011年3月11日
東日本大震災が発生して今日で丁度10年の月日が経つ。
あの忌々しい出来事と、自然の猛威に奮い立たされて、その日からしばらく恐怖の日々を過ごしたことは言うまでもなかった。
今日は当時のことを思い出しながら回顧していくことにしよう。
震災当日
僕はまだ高校三年生で、卒業間近だった。
ただその時大学進学が決まっておらず、入試を受けて結果待ちだった。
ここで落ちたら俺はどうなるだろうか?と不安な日々を過ごしていた。
その日は登校日で午後から学校だった。
友達とラウンジでだべっていたその時だった。
突然大きな揺れが襲ってきた。
めっちゃくちゃ激しい揺れで今まで経験したことがなかった。窓ガラスから軋む音が響き、割れるんじゃないかと恐怖に陥った。
そして揺れがおさまった。
その瞬間全校生徒は校庭に集められた。
携帯の電波は普通だったがメールなどが遅れなかったり、何より電話が出来ない状態になってしまった。
そんな中で友達が言った。
宮城で震度7みたいだぜ。
周りが騒然となった。
確かに今まで経験したことがない揺れだったのにまさか東北の方ではとてつもない揺れだったのかとそこで知り、驚愕した。
そしてしばらく経ってテレビをつけて見ると東北では大津波が襲い、車や建物が流される映像が流れてとてつもなく心を痛めた。
勿論家族に連絡しても電話は繋がらず、電車は再開の動きがなく、時間だけが過ぎっていった。
夕方となり夜になる。3月とは言えめっちゃくちゃ冷え込んで来た。
不安がよぎった。もし連絡が取れなかったらどうしようと。。。
自分の進路が定まってなくて、家族の安否不明の状態で心が不安定になっていくしか無かった。
そこから連絡して繋がったのは夜11時過ぎだった。
母親は家に居たらしく無事で父親も職場から帰ってくるとの事だった。
自分は安全を考えて学校と泊まることにした。
まさか高校卒業間近で震災で学校に泊まるなんて思いもよらなかった。
空腹の中で乾パンとお米を食べた記憶はあるが味の記憶なんてほぼない。
こんなに不安な夜を過ごすのかと思っていた矢先携帯の充電で切れてしまった。
充電器を持って来てなかった。。。失態だった。
通信ツールが途切れてしまい、僕はただ不安な夜を過ごすしかなかったのだ。
そして次の日の朝
朝8時過ぎに校門を出て、駅に向かう。
昨日は慣れない寝床でほぼ寝れず、寝不足でフラフラになりながら駅に向かっていた。
あ、バッテリー充電と思いコンビニに寄ったが案の定売り切れ、諦めるしか無かった。
駅に着き、電車を待つ。
ホームには人がごった返していた。
本当朝のラッシュ時以上(いやそれ以上に人がいた)にいたかもしれない。
しばらくすると電車が到着して、ドアが開くと車内は混雑以上にえげつないほどの人がいた。
これに乗らなきゃ行けないのか。。。けど乗り逃すと次いつ来るか分からなかった為飛び込んで乗るしかなかった。
こんなえげつない人混みを飛び込むという表現で乗ったのは後にも先にもこの出来事しかない。
もう車内は息苦しさでしかなかった。
空気がなく、酸欠になりそうだった。早く着いてくれ。。。心の奥底でそう願いながらつり革に必死に掴まっていた。
そしてしばらくして乗り換え駅に着くと人が降りていき、別路線に乗り換えると席が空いていたので即座に座った。
座れた瞬間少し安堵な表情になり、ほっとした。
そしてしばらくすると到着し、家へ帰宅した。
疲労困憊の状態だった。
昨日からお風呂も入っていなかったので入りたかったが地震でガス栓が止まってしまい、シャワーで済ませて部屋に戻ると、本棚から本が雪崩のように散乱していた。
実家が9階だったため揺れがそれ以上に感じていてたんだと思うとこの震災の猛威を改めて感じることになった。
その後無事に大学合格の通知が届いて、楽しい春休みになる予定だったが計画停電などで遊びに行く事すらもままならない状況だった為、自粛を余儀なくされた。
結果的に大学の入学式も延期となり、大学生活も遅くスタートしたのであった。
そして10年経ち
この10年(この1年)で人々の生活様式が大幅に変わることになった。
スマホの普及により情報化社会は発展を遂げ、便利なツール(SNS)の多様性が大きく生活になくてはならない存在になった。
しかし、あの10年前の忌々しい出来事は忘れてはいけないと日々胸に刻みながら送っていく。
10年経った東日本大震災と日々の生活に感謝しながら生きていく。
生きていることに感謝して