見出し画像

あきつしま 6

『日本書紀』の「暦」の漢字の初出は欽明天皇14年6月の条です。
つまり、『日本書紀』は欽明期から「春秋年」で年紀を表示しなくなりました。
「和暦」と「西暦」の違いはありますが、これよりは変則的ではありますが時系列を分かりやすくするために、年は西暦を用いて、 月日は和暦を用いて記していきます。

21 欽明天皇

西暦539年12月5日、天国排開広庭命(あめくにおしはらきひろにわのみこと)は第29代・欽明天皇として即位しました。父は継体天皇、母は手白香皇女(たしらかのひめみこ)です。

翌年1月15日、石姫皇女(いしひめ)を皇后に立てました。その際、大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稲目を大臣としました。しかし、欽明天皇元年の直後に、大伴金村は任那割譲の責任を糾弾され失脚してしまいます。

※  臣(おみ)は皇別氏族である蘇我氏、葛城氏、春日氏らに与えられ、連(むらじ)は神別氏族である大伴氏、物部氏、中臣氏らに与えられました。

西暦541年、蘇我稲目の娘である堅塩媛と小姉君が欽明天皇の妃となりました。
欽明天皇は百済の聖明王とともに、欽明2年より任那の復興について協議を始めました。

西暦550年に蘇我馬子が誕生しました。

西暦552年、百済の聖明王は仏像と経典を贈りました。―『仏教公伝』

西暦553年、泊瀬部(はつせべ)が生まれ、翌年1月7日には渟中倉太珠敷尊が立太子しました。
同年、百済は新羅との戦いで聖明王が亡くなりました。
その年の5月21日には炊屋媛(額田部皇女)が生まれました。

西暦562年、任那日本府は新羅によって滅ぼされました。任那は一つの国ではなく、十国が集まった連合国であったといわれています。

西暦570年に蘇我稲目が没しました。
蘇我稲目は宣化天皇のときに大臣になりました。

翌年の4月15日に欽明天皇が崩御しました。
同年、渟中倉太珠敷尊は額田部皇女を妃としました。

応神天皇が崩御して久しい欽明天皇32年(西暦571年)、その神霊が豊前国宇佐に初めて示顕したと伝わります。これが八幡神です。
誉田別命を主神とし、母である神功皇后、そして比売神を合わせて八幡三神として祀られていますが、三神の中央には主神の誉田別命ではなく、何故か比売神が祀られています。

--------------------------------------------------------------------------------------

欽明天皇の御世に、突厥(とっけつ:トルコ人)が成立しました。
【トルコ共和国はモンゴル系民族の支配から独立した西暦552年を最初の建国の日としています】

同年、百済は平壌と漢城を放棄しました。
西暦554年、新羅との戦いで聖明王が亡くなりました。

●後に狗邪韓国、そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4~3世紀)に入ると、従来の土器とは全く異なる弥生土器が急増し始めます。これは、後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られています。
この時期(西暦532年)、新羅は任那諸国(加耶)の南加羅を併合しました。
伽耶諸国に侵入しようとする新羅に対して脅威を感じた日本と百済は同盟を強化しました。これが、いわゆる「任那日本府」における任那復興会議です。聖明王からの「仏教公伝」や五経博士の来朝などは、こうした同盟関係を背景としています。

欽明天皇は任那日本府の復興を願っていましたが、仏教公伝により蘇我氏と物部氏の対立が起きました。

22 敏達天皇

西暦572年4月3日、渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)が第30代・敏達天皇として即位しました。敏達天皇は欽明天皇の第2皇子であり、母親は宣化天皇の皇女・石姫皇女です。

同年、物部守屋が大連を引き継ぎ、蘇我馬子が大臣となりました。

西暦572年、厩戸皇子(後の聖徳太子)が橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)との間に生まれました。

翌年1月9日、敏達天皇は息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の娘である広姫を皇后としましたが、広姫は同年11月に崩御しました。

西暦576年3月10日には、16歳年下の異母妹である額田部皇女(炊屋媛)を改めて皇后に立てました。

翌年、百済王に仕えていた日羅(にちら)が帰国し、朝鮮半島に関する政策を進言しました。

西暦578年聖徳太子の命を受けて、3人の工匠が百済より招かれ、四天王寺が建立されました。
これが、世界最古の企業とされる宮大工の集団「金剛組」の始まりです。

西暦584年、再び百済から2体の仏像が贈られ、馬子は仏殿を建立しこれを祀りました。建立後に疫病が流行して物部守屋は神の祟りと触れ回りました。

翌年、物部守屋は天皇に働きかけて仏像を捨てさせ、仏殿を燃やさせました。その後、8月15日に敏達天皇は病が重くなり崩御しました。

--------------------------------------------------------------------------------------

北周の楊堅(文帝)が、9歳の静帝から帝位を簒奪して隋王朝を興し、都を長安におきました。

●訳語田皇子(敏達天皇)は滅ぼされた任那を回復しようと試みましたが、成功しませんでした。また、仏教の受け入れを巡って対立が生じました。これは、蘇我馬子の仏教崇拝と物部守屋の仏教排斥との間の対立です。訳語田皇子は仏教禁止令を出しましたが、問題の解決は次世代に持ち越されました。
訳語田皇子は「前方後円墳」に埋葬された最後の天皇でもあります。

23 用命天皇

西暦585年9月5日、橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)が第31代・用明天皇として即位しました。用明天皇は欽明天皇の第4皇子で、母は蘇我稲目の娘堅塩媛です。

同年、蘇我馬子は豊浦の地に仏塔を建てました。

翌年5月、敏達天皇の殯宮(あらきのみや)にて、穴穂部皇子が皇后・額田部皇女を犯そうとする事件が起こりました。しかし、三輪逆(みわのさかう)の助けによって、額田部皇女は救われました。

その翌年の4月9日、仏教を公認した用明天皇が疱瘡のために崩御しました。7月21日に磐余池上(いわれのいけのへ)陵に葬られました。

崩御後、泊瀬部を押す蘇我馬子と穴穂部を押す物部守屋の対立が深まりました。

西暦587年7月、蘇我馬子は餌香川原(えかがわはら)の戦いで物部軍を破って、衣摺(きずり)の戦いで物部守屋を滅ぼしました。―『丁未の乱』

23 崇峻天皇

西暦587年8月2日、泊瀬部若雀(はつせべのわかささぎ)が第32代・崇峻天皇として即位しました。崇峻天皇は欽明天皇の第12皇子で、母は小姉君です。崇峻天皇は伯父の蘇我馬子によって推戴され即位しました。
この年、物部氏が蘇我氏によって滅亡しました。このとき、厩戸皇子(聖徳太子)は13歳でした。

崇峻天皇は、大伴小手子(おおとものこてこ)を妃にすると同時期に、飛鳥寺と四天王寺の造営が始まりました。

西暦592年11月3日、崇峻天皇が「いつかこの猪の首を斬るように、憎いと思う者を斬りたいものだ」と言ったのを聞いた蘇我馬子は、自分がその対象だと悟りました。
そして、蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺し、その日のうちに埋葬しました。

●蘇我馬子(そがのうまこ)は、飛鳥時代の有力な豪族であり、日本の古代史において重要な役割を果たしました。

馬子は、仏教を積極的に受け入れ、広めることに尽力しました。当時、日本では仏教の受容を巡って豪族たちの間で対立がありました。
馬子は仏教を支持し、寺院の建立などを通じて仏教を広めました。
一方、物部守屋(もののべのもりや)は伝統的な神道を守ろうとして仏教に反対していました。この対立は、最終的に蘇我氏と物部氏の戦いに発展しました。

蘇我馬子は、物部守屋との激しい対立の末、用明天皇の崩御後、物部守屋を討つために軍を起こし、戦いに勝利しました。この勝利により、蘇我氏はヤマト朝廷で大きな力を持つことになりました。

その後、馬子は崇峻天皇を暗殺し、これにより馬子の権力はさらに強化されました。

崇峻天皇の暗殺後、蘇我馬子は額田部皇女を即位させました。額田部皇女は日本初の女性天皇であり、馬子は聖徳太子と共に様々な改革を推進し、日本の中央集権化を進めました。

馬子は、仏教の普及を進めるために、四天王寺の建立にも関与しました。この寺院は、日本における仏教文化の象徴の一つとなり、現在でも重要な歴史的遺産として残っています。

--------------------------------------------------------------------------------------

崇峻天皇の御世、中国では鮮卑族の隋の楊堅が建康(南京)を都とする陳を滅ぼし、五胡十六国時代を終わらせて中国を統一し、大興(現在の西安)に都を置きました。
また、この頃に「科挙」制度が創設され、均田制と租庸調制が取り入れられました。
さらに、隋の僧である智顗(ちぎ)が天台宗を開きました。

24 推古天皇

西暦592年、12月8日に額田部皇女が豊浦宮(とゆらのみや)において39歳で第33代・推古天皇として即位しました。推古天皇は欽明天皇の皇女であり、母は大臣蘇我稲目の娘の堅塩媛です。
推古天皇は蘇我馬子に請われて即位しました。

西暦593年4月10日に推古天皇は甥の厩戸皇子(聖徳太子)を太子(ひつぎのみこ)として万機を摂行させました。厩戸皇子の父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女です。同年に田村皇子が生まれました。

翌年には宝女王(たからのひめみこ)が生まれました。厩戸皇子は四天王寺を創建しました。
この年、仏教興隆の詔が発せられました。

翌年に高句麗の僧、慧慈が日本に来朝しました。この頃、軽皇子も誕生しました。そして日本で初めて瓦葺屋根を持つ飛鳥寺が596年に完成しました。

597年に吉士磐金(きしのいわかね)が新羅へ派遣され、翌年には新羅から孔雀が贈られました。

600年には厩戸皇子は文帝のときに『第一次遣隋使』を派遣しました。
601年には斑鳩宮の造営を開始しました。

603年12月5日、厩戸皇子によって冠位十二階が制定され、天皇を中心に一つにまとまる国を目指し、封建制から中央集権制へと移行しました。
この年、推古天皇は小墾田宮へ遷りました。
同年、厩戸皇子(聖徳太子)に仕えた秦河勝は、聖徳太子から賜った仏像(国宝指定第1号の弥勒菩薩像)を本尊として、太秦(うずまさ)に秦氏の氏寺である蜂岡寺(広隆寺)を創建しました。

翌年4月3日には十七条の憲法が制定され、部族・豪族社会から官僚社会へのスタートを切りました。

その後、厩戸皇子は斑鳩寺に遷り、勝鬘経を講じました。
607年には『第二次遣隋使』を派遣し、煬帝に「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」「朝貢すれども冊封は受けず」と書きつけた親書を送りました。小野妹子は煬帝の国書をなくして帰国しました。
法隆寺がこの年に建立されました。
同年に「敬神の詔」が下されました。

翌年、『第三次遣隋使』が派遣され、煬帝に「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」から始まる親書を送りました。隋使の裴世清を送る小野妹子に従い、南淵請安、高向玄理、僧旻らが隋に留学しました。

609年に飛鳥寺の大仏が完成しました。

612年、百済人の味摩之(みまし)が伎楽(ぎがく)を伝え、少年たちに伎楽を習わせました。

613年には掖上池、畝傍池、和珥池を作り、難波から飛鳥までの大道(竹内街道)を築きました。この大道は日本最古の官道です。

翌年には最後の『遣隋使』となる犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らが隋へ派遣されました。この年に中臣鎌足が生まれました。

620年、厩戸皇子は蘇我馬子と共に『国記』『天皇記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂しました。

622年2月22日に厩戸皇子が薨去しました。
この年に大海人皇子が誕生したとされています。【天武天皇は、鎌倉時代に書かれた「一代要記」と南北朝時代に書かれた「本朝皇胤紹運録」に686年に65歳で崩御と書かれています】

624年に蘇我馬子はヤマトの六県の一つである葛城県の支配権を望みましたが、推古天皇はこれを拒否しました。

626年、中大兄皇子(なかのおおえのみこ:葛城皇子)が生まれました。
同年、5月20日、蘇我馬子が没しました。

628年3月7日に推古天皇が75歳で小墾田宮において崩御しました。9月、遺詔により竹田皇子の陵に葬られました。

--------------------------------------------------------------------------------------

推古天皇の御世、『隋書』倭国伝によると、西暦600年に「姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(おほきみ)と号す倭王」が隋に使いを派遣し、朝貢させたと記されています。この年、神道を幹とする「敬神の詔」が下されました。

同じ時期、ムハンマドがメッカでイスラム教の布教を始めました。
中国では李淵が煬帝の孫を立てて恭帝としましたが、後に禅譲を受けて618年に高祖として唐を建国しました。

隋は3代で滅び、唐の高祖は仏教と老子の道教を崇拝しました。高祖は老子を帝室の祖として老子廟を建てました。

624年に高祖は大陸を平定すると、朝鮮三国は唐の冊封を受けました。
626年には唐の太宗が高祖の後を継ぎました(626-649)。

◆唐の時代、法蔵によって華厳宗が、善導によって浄土宗が、道宣によって律宗が、慧能によって禅宗が開かれました。

●「神道は道の根本、天地と共に起こり、以て人の始道を説く。儒教は道の枝葉、生黎(人民)と共に起こり以て人の中道を説く。仏道の道は華実、人智熟して後に起こり、以て人の終道を説く。強いて之を好み之を悪むは是れ私情なり」(聖徳太子伝歴補註解)

いいなと思ったら応援しよう!