在留特別許可と外国籍①
こんばんは!じじです!
もう8月になって、梅雨明けがしました。ずっとオンラインで大学の講義を受けていたので外の暑さには慣れていません。(笑)
今回は自分の過去の経験を時系列に何回か分けて公開しようと思います。なぜ、私がこのことを発信しようと思ったのは、私と同じ境遇にいる子どもたちがいるからです。もちろん、この日本に住む外国人に複雑な思いを持つ方にも知って欲しいからです。今回は私の一事例なので、全ての外国人がこうではありません。外国人の子どもたちやその親がどんな思いで日本で過ごしているのか、「共生」ってなんだろうと考えていけたらいいなと思います。
両親と離ればなれになる
もし、隣に住む外国人が突然いなくなったら、あなたは何を考えますか。
2010年の6月末、私はフィリピン国籍を持つ両親と私と弟・妹の5人で一緒に暮らしていました。近所付き合いも良く、隣に住むおじさんの家に遊びに行って将棋やBBQをしていました。ある日の朝、私は起きて学校に行き、友達と一緒に校庭でドッジボールして、鬼っごして、授業を受けてと普段と変わらない日々を過ごすつもりでした。家の中がざわざわしていたのでふと起きてみたら、両親を囲むように大人が3〜4人立っていました。当時の私には状況を読み込むことができず、混乱していました。弟と妹を起こし、とりあえず荷物をまとめる準備をして、足早に警察署に向かうことになりました。車の中ではいろんな情報が飛び交っていましたが、それが自分の将来を左右するものだと。警察署で事情聴取を受けた後、児童相談所(一時保護所)に移動することになりました。この時点で「両親と会えない」と思いました。
一時保護所の生活
両親は入国管理局の収容施設に入り、私たち兄弟3人は児童相談所の一時保護所に入所することになりました。初めて両親と離ればなれになった日です。一時保護所の生活ははっきり言うと「厳しかった」です。一時保護所のすべて時間で区切られていて曜日ごとでやる事が異なっていました。朝6時に起床し、就寝時間は小学生は8時で中学生以上は9時でした。それまでの間、時間割のようなもので分けられていました。私が入った頃は一部屋に3〜4人で7部屋ぐらいありましたね。布団を並べて寝ていました。当然、両親と離れているので元の生活にはもう戻れません。
私は毎日、枕を涙で濡らしていました。ここには「家族」という存在がもう無いからです。
これまで、両親がいた生活が何より大切だったか、一時保護所に入って感じました。これから両親のいない生活を2週間過ごすのが怖かったです。
続きはまたあとで。。。。