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子どもが好きで先生になった人応援します。先生の道7

 オリンピックも過ぎ、何か一区切りついたという感じですね。
いよいよお盆休み。先生が本当にゆっくりできるのはこの時期だけなのかも知れませんね。

 学校のウサギを教育委員会が夏休み引き取るという取組が始まったというニュースを知りました。先生の負担が少なくなる、確かにその通りなのですが
いつから「飼育小屋で動物を飼育する仕事」や「飼育池や水槽で魚やメダカの世話をする仕事」が「先生の仕事(分掌の仕事)」になったのでしょうかね。
ウサギ、モルモット、カメ、カエル、ニワトリ、チャボ、ヘビ、トカゲ、ふっと思い出すだけでこんな動物と仲良くなれたのも先生していたからかも、知れませんね。

 アリ、ダンゴ虫も観察することが大事だし、苦労して育てる中で「命」と向き合うことも大切な学びなのですか、先生たちが、そうしたことを負担と考えているということが「当たり前のこと」ととらえることに少し違和感がありますね。負担なら生き物の観察(どちらかというと図工の題材)をビデオですればすむ話だとは思います。「命」の学習なら、そうした苦労して関わることも、学びだと思うのは、古いのでしょうね。ウサギしかもう学校には、いない時代なのですね。

 キャンプ場に行かなくても学校でカブトムシやクワガタに出会うことができたのは、飼育し養殖できる場所が学校にあったからなのでしょうね。プール指導がなくなれば、先生や保護者の負担は少なくなるけど、「スイミングに行かせることができる家庭」の子どもは「自分の命を守る方法を手に入れられることができる」けど、経済的に余裕のない子どもの命は守れない。だから水泳指導があると聞いたことがあるけど、水練場という富国強兵の育成施設を使い回していた昭和の教師としては何か、後付けにしか聞こえなかったな。

 鳥インフルエンザで、鳥小屋にいた鶏やチャボは処分され、飼育小屋を襲う野犬やいたちから動物を守るため、校舎の中で、飼育しなくてはならなくなったという歴史もあったけど、そんなこと知らない先生もいるし、夏休みに「飼育係(いきものがかり)」だったので家に動物を連れて帰れないで困った家庭もあったし、だから若い独身の先生が持って帰ったりしたくてはならなかっただけで、「先生の負担解消」なのかな。
学校にあった大切なものが消えていくように思うけど、それが時代の変化なんだろうな。

 最近の株価の乱高下を新聞でみても、「株」を買う余裕もなく、新NISAとかの投資もしてなかったリタイア組なので、「追証」がなんとかとか友人の嘆きがもうひとつ実感がないのですが、要するに株は上がるとと儲かるけど株価が下がると追加料金が必要になるという認識しかないので、なんだか慌ててる友人の役にはなれないようです。

 たしかに、バブル崩壊やリーマンショック、古くはオイルショックという、世界経済の中で翻弄される「日本」を生きてきました。公務員でいたから、それほど多くのダメージがあったということはあまり聞きませんでした。

 公務員は普段は「いいところ」がみえないのですが、こうした日本がヤバくなりそうな時でも、比較的安全な場所にいてられると言う利点はありました。株や投資で副収入を得ることが手続きさえすれば可能だったようにも思うのですが、そうしたことも、現役の時には考えてもいませんでした。

 リタイアすると知らなかった世界がいろいろ見えて来るようです。みえなかったのは一馬力で働くという古くさい美学に縛られて、貧乏生活していてもそれが当たり前だと思っていたからかも知れませんね。

 羡ましいことですが、先生同士の結婚や公務員同士の結婚は、老後になって安定した生活をすることができますよ。お互いの愛情が維持できるかどうかは別にして。

 それははさておき、質問でしたね。
 問いづくりでしたね。

 自分の持っている、課題意識か「問い」と関わりがあるようにも思います。

 例えば
 
知らなかったことを、初めて経験すると動揺するのは当たり前のことですが、意図的に誰かがある側面のことだけの情報を流し、不利益な情報を流さないことを「偽装」という言葉でよく聞きますが、そうした情報の操作が、当たり前のようになされていることを知らなかったら、どうすることがベストなのでしょうね。

 みたいな感じで、問いを貯めておくようにするのもいいかもしれませんね。身近な出来事から問いをつくるのもいいかも、ですね。

 採用試験前の大学生に、その都道府県の厳しい現実を見せることはその都道府県の教育委員会では、あまり行いません。教員養成の仕組みかできていたのでそうした場所で経験したかも知れませんが、優秀で魅力的な授業ができる先生や先進的な取り組みをしている学校の研究会や授業を見せるのが一般的だと思うし、大学生もそうしたことを、期待します。でも、必ずそんな職場に赴任できるとはかぎらないですよね。赴任したとき、期待した学校現場ではなかったからという理由で、辞める先生もいるそうです。先輩や上司との人間関係がうまく行かす悶々と悩む人もいるようです。

 でも、それって学校の先生だけの問題なのでしょうか?

という風に身近な問題意識からもっと広い立場での「問い」に拡大していく方法が好きでしたね。

 子どもたちが理解できそうな(クラスの実態を、つかんでおくことが必要ですね)話題から「授業で考えたいこと」を暗示する問いを作る、なんか「ネタ」作りみたいで受けることを期待していたのは関西人なのかも知れませんが。

 最近の老人の悩みから

 クーラーが必需品のようになる暑さですが、それほど性能的に違わなくて「最新式」のクーラーの定価は「一年落ち」のクーラーより高いのが当たり前です。     

 自動車車もそうですね。買う側も新しいものを欲しがります。期待して買ったのに古くて安いもののほうが性能がいいと気づいたとき、騙されたと思い、もうその店を利用しない客もいるそうです。
各家庭でクーラーを使う時間が増えれば電気が使われるのは当たり前です。夏場に停電になればおじちゃんやおばあちゃんにとっては、もはやいきる死ぬの問題にもなりかねません。
電力さえつくることができたらいいのですが、原発も怖いし、環境破壊もしたくないと考える人もいるそうです。
エネルギーを安くで売ってあげるから、うちのグルーブに入りませんかというのが当たり前だという国もあるそうです。
エネルギーがない日本はエネルギーをどのように確保すればいいでしょう?

 少し長い「フリ」ですが、フリの中に事実を提示し、いろいろな条件をちりばめておき、ゲーム感覚で「自分の解決方法」を、考えさせることもできますよ。

「問い」と議論を繰り返して行けば考えてほしいことを深めていくことができますよね。この辺りは「ICTの活用で思考の可視化」ができる環境とその操作スキルがあったら、どんどん子どもたちがすすめますね。

 核兵器の利用には反対なのですが、アメリカの核の傘のなかに入らないと不安になることがあります。戦争はしたくないのですが、相手はこちらのことなど考えないのが当たり前です。戦争をぶっかけそうな国になにもいわずに吹っ掛けられたら仕方ないと思う人もいます。
戦争は政治のひとつの手段だと昔の歴史家は言いました。
戦争しないために準備はしておくべきだいう人もいるそうです。

 戦争は避けられないことなのでしょうか

日本の漢字が外国では流行ってます。公文のバックを担ぐ観光客もよく見かけます。オリンピックの選手がタトゥーで日本の熟語をつけることがあります。外国の人たちのなかでは、不慮の辱しめを受けるのならやはり切腹だという美学がまだ日本にはあると考えている人もいるそうです。

 「不慮の辱しめを受けるのなら死を選ぶ」という考え方についてあなたの意見は?

 異文化理解や他者理解というアプローチも「問い」がつくれないとマニュアル通りの味気ないものになりますね。
平和教育(戦争教育だという人もいますが)や人権教育も小学校では「正解のある教育を受けることではなく、自分の正解を見つけるための意見バトルゲーム」でしたね。平和教育なのに教室がバトルフィールドにしてしまう面白さ、ですかね。「問い」づくりは努力して身につけるスキルではなく、物事を「楽しむ」感性なのかもしれないなと思うことがよくあります。

 立場を置き換えて考えるディベートもその優劣を誰かが判定するという多数決の論理をいれないで、経験させることを重視したオープンエンドの「議論のルール(論拠の提示。対論の提示)」さえできれば「批判」という言葉の持つ意味を子どもたちは理解します。

 こうした感性や論理的な考え方を育てる土壌は小学校教育の大切な部分だと思ってきました。

 世の中には、いろいろな正論がありますね。多様性の時代ですからね。考えを持つことは大事なことですが、それを問題解決のための行動にどういかすかということは難しいように思います。

 問いと議論を授業のなかで構成し、問題解決のために行動化させる。文字にすると50字ににもならないのですが。

 感情や経験に束縛されすぎると「ゼロ1」の意味がなにかを創造するという感覚から、2項対立的な「yes or no」思考(勝ち負け重視、正邪の判断重視)になるときがあるのかもしれません。

 「yes or no」思考の人には「折り合い」をどこにつけるのか、「おとしどころ」を、どこにするのかがわからないと戸惑うことがあるようです。自分でそれをきめてもいい時代になっているということが「古きよき時代の、日本人」の残像を見ている人たちにはみえないのかもしれませんね。

 先生が信念に生きるのもかっこいいけど、小学校の子どもに伝わらない正義だったらカッコ悪いと思ってきました。

 カッコいいか悪いかは「受けもった子どもたち」がきめるのかもしれないしね。

 あなたがいうように、疑問や矛盾を指摘して問いをつくるのはたしかに、先生に「経験とか、一定の知識や課題意識」が必要ですよね。

 問いをつくるのは、本当にむずかしいと思います。

 でもここがある意味で子どもをのせられるかのせられないかの分かれ目だよね。

 クラスの子どもたち理解ができてるかどうかだよね。なんのためにこの授業するのかなって問題意識も必要かな。
クラスの子どもたちの問題意識を把握できているか、今、必要な問いかという辺りも、ですね。

 そのための努力はあまりしなかったけど、僕は取り上げた「課題から課題解決の方途を議論の中で作り方あげ、自らの行動に結びつけていくというストーリーがあり、それぞれの子どもの中で完結する総合の時間が楽しかったんだと思います。

 「だから、なにができるか先生と一緒に、考えてみようよ」と、ためらいなく子どもたちに語りかけた先輩の言葉、ためらいもなく盗んで長い間、使わせてもらいました。

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