情報モラルとデジタルシティズンシップ
情報モラルが古くて,デジタルシティズンシップが新しいという考え方ですか。
最近デジタルシティズンシップを研究している方も増えてきたようですね。
情報モラルという指導もデジタルシチズンシップという概念も
日本では新しい考え方だと思いますね。
モラルとリテラシーの関係を整理しておく必要があるようですね。
「情報モラル」キックオフガイドのワーキンググループに参加した時から基盤となるモラルをベースとしたリテラシーが必要だという考え方をしてきました。
「活用スキル」を「リテラシー」という言葉で表現するようになったのは、学校での「情報教育」における指導が「コンピュータスキル」重視になってきた時に
単にタイピング操作を早くできるようにするというスキル獲得から「人に伝えるためにはどんなことが必要で、そのためには何を活用すればいいのか」という研究を始めたころからでした。
その後、情報社会の変化により「ネットワークリテラシー」「メディアリテラシー」という用語が使われていったように記憶しています。
シチズンシップに関しては欧州型の産業革命以降発展してきた古典的な「殖産工業を支える市民の資質教育」とアメリカ型の「民主主義社会を形成する市民の資質教育」という流れの中で、「情報機器の発達に伴う社会の変化に対応できる市民の資質」とは何かという問いに対して、2012年頃、アメリカの国際教育技術学会が発刊したDigital Citizenship in Schools ( Mike Ribble)で示されている「学校におけるデジタルシチズンシップ」という言葉に初めて出会いました。その中で示されてい9つの視点のうの一つに「Digital Literacy」があったと記憶しています。
キリスト教という宗教において日常生活の倫理観が形成される欧米のmoral感覚を日本人が理解することは、難しい部分があるのかもしれませんが、欧米においての教育には常に倫理観が日常生活の中で形成されているという意識が多くあるようです。日本の場合は、この辺りが微妙な問題になるようです。
日本の学校教育に「Citizenship」という概念が入ってきた時「公民」と訳されたことは有名な話ですが、同じ社会科の領域に「倫理社会」という教科が並列のものとしてありました。また、別の領域として「道徳」が存在していました。 行動規範や考え方のベースとなるものが日常生活の中で形成されることをmoralとしてとらえることは、日本の戦後の学校教育では難しかった部分があるように思っています。人格の形成が教科の学習における知識の獲得で形成されると思い込んでいた人がいたのかもしれません。
ただ、モラルとリテラシーは対立するものではなく、モラルを土壌としてリテラシーが機能するという関係なのだと思ってきました。
あなたの、デジタルシチズンシップか、情報モラルかという問いに答えられているかどうかわかりませんが両方必要なんだと思います。
あたらしい古いの議論は「不易流行」という言葉があるように、物事の本質と時代における対応や変化のありようを古い新しいで判断することは避けることが大事だと思っています。
専制国家や産業革命で生まれてきたシチズンシップという概念、情報化社会において生まれてきたデジタルシチズンシップという概念、なら、これから考えていかねばならないのはAIシチズンシップなのでしょうね。
シンギュラリティに一喜一憂する必要はないと思いますが、「AIを活用する時代における市民の資質」を考察し、そうした社会で生き抜くための「シン情報モラル」を子どもたちと考えていくことが、必要になる。。。かも(笑)