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世代の壁をものともしない。会社の歴史とチームが変化するまで

中小企業の変革を支える人たちのインタビュー

本企画では、70年続く中小企業の中で、(様々なしがらみを乗り越えて)企業の変革に挑戦し続ける人たちに焦点をあてて、どんな挑戦と失敗があったのか、またどのような成長をしているのかをリアルに伝えていきます。
中小企業で働く多くの人たちにとって、エールになれば幸いです。

第二弾は、70年以上にわたる会社の歴史を長く見てきた、現在役員として会社を支える宮脇信行さんにインタビューをしました。

インタビュアー:石毛

始まるJiiでの人生。リーマンショック当時の会社の状況とは?

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宮脇さんのこれまでのJiiでの経歴をざっくりと教えてください。

1992年に大学を出て、はじめはアルバイトとして日本工業社に入りました。

私が生まれた年です(笑)

そうなんですね!やばい、ちょっと息切れしちゃった、、、

当時、趣味の映画作りに没頭しながらがアルバイトとしてやり過ごしていました。
通っていた東京電機大学の目の前に昔の日本工業社があり、玄関には「大学生向けにコピー安くしています」と書いてありながら、生協よりぜんぜん高いということで校内で有名でした(笑)
ちょうどバイトを始めようとしていた時にフロムエーで募集をしていたので、面接に行きました。
面接当日、たまたま総務の人がいなくて代わりに面接してくれたのが当時社長になったばかりの和秀さん。そこからが日本工業社での人生がスタートします。
実は当時出会った時の和秀さんは、3年前に昌悟さんが入って来た時の年齢とほぼ同じ。昌悟さんが来たときはタイムスリップした感覚になりました。
ある意味一つの区切りとして再スタートした感じです。
そこから5~6年後に正社員にとなり、更に6年後くらいには早くも役員に就任していました。
当時取り組んでいたことは、主に会社の改革プロジェクトや、本社移転プロジェクトの立ち上げ。2007年に自社ビルを売って賃貸のオフィスに移転した頃、デジタル複合機が導入され始め、紙を使う勢いがすごい世の中となりました。
毎年売上が伸び続けていたのも束の間、リーマンショックにより売り上げが突然ストップ。
売上の維持で精一杯となり、やむをえず従業員も減らすという事態に陥ってしまいました。その数年は、結構な不安になる期間でしたね。
2010年頃、お客様の移転を機に日本工業社も長らく千代田区に本社をかまえていたのをお客様のテナントとして新川に移転しました。その頃になると売上は一時落ち着きを取り戻しました。
お客様のビル内にオフィスを構えることとなり、これで安定を取り戻せると思いましたが、客先という環境下により益々管理が必要で、管理統制を強くするようになっていきました。
良い意味でも悪い意味でも管理が厳しくなって自由にものを言えなくなっていきました。
それが顕著になったのは2010年以降、2017年までそれが続きました。
本社にかかる費用は膨れ上がり、総務人員は3~4人、本社も拡大して家賃がかかるようになり、背負うものを増やしていた気がします。
何か手を打とうとも変えるに変えられず、社員も経営陣自身も「何を言っても変えられない」との諦めきった雰囲気が蔓延していました。

なかなか変えることのできない会社の体質。長い期間で固着したものとは?

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長い期間でしたね…。その中宮脇さんの役割として、変えなければいけないという思いはあったと思います。当時役割を果たすためにどんな事に取り組んでいましたか?

本来やるべき役割は、会社が悪い方向に行かないよう止めるべきでしたが、できなかったという部分では全然役割を果たせていませんでした。
経営を取り締まる役でありながら、トップに立つ人たちのことを取り締まれなかった、役割を果たせなかったという反省はありますね。
これは今となって自覚した事でもありますが、日本工業社に限らずどの多くの会社で起きやすいのかなと今では理解していて、そうならないような組織作りが大事と気付きました。

その当時、社内の雰囲気はどうでしたか?

雰囲気は決して良くはありませんでした。
社員からは「トップは何を考えてるのかわからない」という声や、「上の人に何を言っても変わらない」という声は多くあがっていましたね。
じゃあどうしよう?となったときに、そんな管理体制の中、これは良くない等の声をあげたら自分に被害が来るのではないかとお互いに思ってしまい、何も言えないという雰囲気が出来上がってしまっていました。
本当は経営層や組織の中で権限を持っている人が言い出さないといけなかった事が、それすらできなくなっていたというのが今思えば長い期間でしたね。

思い切った会社変革。そのきっかけと動き出すまで

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それが膠着した長い年月を経て、社長が変わった事を機に変革の機会を迎えましたね。その始めの段階で、宮脇さんの中で大きく変わったことは何でしたか?

目に見えて大きく変わった部分では、なるべく失敗するという事を体験すること、それを攻め合うのではなくて、それをどうしようかという解決策に取り組もうといった風土へ転換した所です。以前は失敗してもやろうなんて言える人はほとんどいなかったんじゃないかと思います。それが体制でいうと、評価制度を減点主義から加点主義へと変えた部分などに出していきました。

宮脇さんはその中、取締役としてどう変革にに取り組みましたか?

僕は最初の1、2年は、変わるという事に関して邪魔にならないようにしていました。こんな自分でもできるのか?という不安のほうが大きく、悩みつつもまず最初は様子見をしていましたね。
この7、8年で起きたことはメンタル的にも厳しい状態でもありましたし、それ以上の被害が起きないようにすることが最優先でしたね。
元々ファミリー経営のこの会社で、長い歴史を築いてきたこともあり、一気に運営側も含めて変えよう!ということをおこなったのは相当な大変革だと思います。
自ら変革に積極的な動きを強めたのは、新型コロナウィルスが始まるあたりからですね!

宮脇さんが変革に動きを強めていってから、組織でどういう役割を務められていますか?

これまで現場を中心に関わっていたところを足抜けしつつ、会社全体的な仕組みづくりの支援に重点的に取り組むようにしました。

新しい社風で世代の壁をものともしない。その秘訣とは?

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仕組みあってこそ会社運営できますからね!
比較的若い社員が中心となりました。大半が20、30代の社員ですが、ひとり50代として活躍されていると言ったところではどうですか

あまり自分だけ50代とい意識はありません。ある意味幼いと思っています(笑)反省すべき点と喜ぶ点がありますが・・・(笑)
だからそんなに自分ひとりが50代という年齢的なプレッシャーはあまりなく・・・

なるほど・・・それを意識する秘訣とかありますか??

僕は結婚が遅かったこともあり、45歳で子供が生まれて1歳の子とやりとりしていて・・それは20代、30代で経験する人が多いと思いますし。さらに世代下の人たちが常に身近にいる、それが一番大きいかな。
違和感や苦は全くないですね。

いろんなタイミングが功を奏したのですね(笑)若者の中でやっていかなきゃと苦労する人のほうが多いと思いますが。

逆に同年代ばかりの中だと苦ですね(笑)
世の中に出ていくときに自分のしっかりとした意思はなく、とにかく就職すればいいという家庭で育った人が大半の世代。同年代の人たちは、そこのギャップに振り回された人が多いのかなという印象です。 
自分の考えで生きるか、言われたことのレール通りに生きるかの世代の違いですね・・。
僕は幸いにも親が変わっていたので、むしろ今の世代の人たちのように自分の意思でやりたい道に進む家庭で育ったことも功を奏しました。

世代の壁を悩みとした多くの同世代の人たちへ

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なるほど!そんな宮脇さんから同世代の人たちにアドバイスをお願いします。

自分が思っているよりも他人は自分の事をそこまで意識していない、どうでもいいと思っています。だからもう少し好きに動いてみる、という事も考えてみてはいかがでしょう。でもそのためには自分の言ったこと、やったことに責任を持つこと、そのふたつくらいだと思います。

ありがとうございました。





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