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24 僧侶が弔いに関わってはいけない時代のお話し/日本の仏教が葬式仏教になった理由⑤

 鎌倉時代初期に活躍した鴨長明という僧侶がいる。『方丈記』という随筆を書いたことで有名であるが、その鴨長明が当時広まっていた仏教説話を集めて、『発心集』という説話集を編纂した。その中に、次のような話が収録されている。


 ある時、京都に住むある僧侶が、思うところがあって、坂本にある日吉神社に百日詣をしようと決心した。

 八十日目を過ぎて何日目かのことである。お参りから帰る途中、家の前で人目をはばかること無く泣いている娘と出会った。

 僧侶は放っておけず、「何がそんなに悲しいのだ」と声をかけた。

 ところが娘は僧侶を見て、「見たところ、お坊さんは精進潔斎してお参りをしているようです。そのような方には、ご迷惑ですからおはなしできません」と言うのである。

 僧侶は、娘の言葉から何があったのか何となく察したが、ほおっておけず、何度も問いただすと、ようやく娘は身の上を話し始めた。

 「実は、私の母はずっと具合がわるかったのですが、今朝、看病の甲斐無くついに亡くなってしまいました。つらい別れです。受け入れなくてはならないことです。ただ、母をこれから弔わなければなりません。私は独り者なので、頼る人もありません。女ひとりではどうにもなりません。村の人は『かわいそうに』と言ってくれますが、神社に使える村ですから、死の穢れのことを考えると、頼るわけにいきません。それで、どうしたらいいか困っているのです」

 娘の話を聞いて僧侶は、「ほんとうに困っているのだな」と切なくなり、ともに涙を流したのである。そして「神さまも我々衆生を救うために、この穢れに満ちた世界に存在をお示しくださったのだ。私も、娘の話を聞いて、どうして放っておけようか。これまで、こんなに何とかしてあげたいという気持ちを持ったことはない。仏さま、よくご覧になってください。神さま、百日詣での途中ですが、ここで穢れに触れることをお許しください」と考えた。そして「そんなに悲しむでない。とにかく亡骸を埋葬しよう。ここに立っていると怪しまれるから、とりあえず中へ」と、亡骸が安置された家に入ろうとすると、娘は涙を流してよろこんだ。


 僧侶は日が暮れてから、闇夜にまぎれて亡骸を移し、懇ろに弔った。

 その夜、僧侶は寝付くことがでなかった。そして「ああ、死の穢れに触れてしまい、八十日以上お参りした功徳を無駄にしてしまった。つくづく残念だ。でも百日詣はご利益のためだけに始めたのでは無い。この後お参りに行って、日吉の神さまが衆生を救おうとお誓いになったお気持ちに触れてこよう。穢れに触れてはいけないというのは、形式的なものであるのだから」と考え、明け方に水を浴びて潔斎し、日吉神社に向かった。ただ道すがら、やっぱり穢れに触れたことが気になり、恐ろしさも感じ始めた。

 社に着くと、二ノ宮のあたりに、人がたくさん集まっていた。よく見ると、巫(かんなぎ)に神さまが降りて何かを語っているところだった。僧侶は、自身が穢れに触れてしまったことを負い目に思っていたので、巫に近づかず、形ばかりのお参りをして帰ろうとしたところ、巫が遠くから「そこにいる僧よ」と声をかけてきた。僧侶はとても恐ろしかったが、逃げることも出来ず、わなわな震えて巫のもとに出ると、まわりの人も怪訝な顔をして見守った。

 巫が声をあげて「あなたのしたことははっきりと見たぞ」と語りかけると、僧侶は恐怖で身の毛がよだち、生きた心地がしなかった。さらに「恐れることは無い。感心なことだ。私はもともと神では無く、地蔵菩薩である。衆生への哀れみから、方便で神に姿を変えて日本に現れたのだ。穢れを避けるのも、信心を深めるための方便である。ただ、このことを他人に語ってはならない。愚かな人間は、おまえが哀れみの気持ちから禁を破ったことを知らないで、簡単に戒めを破ってしまうだろう。これを先例にしてしまうと、信心を乱してしまう。物事の善悪は、人によって異なるのだ」と。

 僧侶はこれを聞いて、ありがたく、畏れ多く感じて、涙を流して社を離れていった。その後僧侶には、何かにつけて神仏のご利益であろうことが多かったという。


 この話からは、鎌倉時代、死の穢れというものが如何に怖れられていたかがよくわかる。特に、国に認められた正式な僧侶、すなわち官僧は、死の穢れに触れた場合、三十日間精進潔斎をしなければならず、さらには穢れが他の人に移らないように家の中に籠もっていなければならなかった。

 ところが、この発心集に出てくる僧侶は、穢れを避けなければならない身であるにもかかわらず、親を亡くした娘を哀れだとおもって、その亡骸を弔った。しかも僧侶自身は、神社にお参りをする際、この行為に対する神の怒りを怖れている。現代人の感覚では、単純に「親切な、いい人だ」ということになるが、当時の人にとってはそう単純では無かったはずである。

 死の穢れに触れるということは、本人にとっても恐ろしいことであるし、同時に他の人に迷惑をかけかねない行為である。そして、死に触れたこと自体が、咎められるべき行為でもあるのだ。

 この説話に登場する僧侶が、死に関わろうと決心するまでには、相当な勇気を振り絞ったはずである。社会的な掟と慈悲の心の間で、気持ちは揺れ動いたに違いない。それでも僧侶は、娘の母親を弔おうと決心した。

 これが、葬式仏教の誕生であろう。

 おそらく、たくさんの名も無き僧侶が、この僧侶と同じような場面に出くわし、同じような決心をした。人を救いたいという気持ち、そして慈悲の気持ちが、こうした行為を生んだに違いない。

 鎌倉時代、法然や親鸞、道元、日蓮などの祖師方が、個人を救うための教えを説いた。そしてその弟子たちが、その教えを広めようと布教活動を続けてきた。

 僧侶が葬式に関わることに関して、祖師方は何も言っていない。しかし、祖師方が説いた教えは人を救うためのものである。その人を救いたいという思いが、年月をかけて何代も伝わり、葬式仏教を生んだのである。(続く)


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