22 教義的信仰と儀礼的信仰/日本の仏教が葬式仏教になった理由③
信仰には、教義的な信仰と、儀礼的な信仰がある。
端的に言えば、教えを学び、教えに基づく生き方をしていくのが教義的信仰、様々な場面で神仏に祈るというのが儀礼的信仰である。教義的信仰はどちらかというと理性的で、儀礼的信仰は感覚的である。
また儀礼には、どうしても非科学的で、マジカルな力というものがつきものである。そのため現代社会は、儀礼的信仰を低いものと見る傾向が強い。しかし、どちらか一方が、他方より価値があると考えるのは正当では無い。どちらが欠けても、信仰は成り立たない。ともに信仰の重要な部分を担っている。
また宗教を分類するのによく使われる概念に〈創唱宗教/自然宗教〉というものがある。
創唱宗教というのは、教祖が「創唱」した宗教のことで、キリストが創唱したキリスト教、ムハマンド(マホメット)が創唱したイスラム教、釈迦が創唱した仏教などがこれにあたる。
一方、自然宗教は、自然発生的に生まれた宗教のことを言う。日本で言えば神道がそれにあたり、世界的に見れば、道教、ヒンドゥー教などがある。
創唱宗教は教祖が説いた教えを中心になりたっているが、自然宗教は体系的な教えが無く、儀礼を中心になり立っていることが多い。
世界三大宗教と言われるキリスト教、イスラム教、仏教は、すべて創唱宗教であるが、創唱宗教が広まる前は、どんな国、どんな地域にも、自然宗教が存在していた。そして、その地域の信仰が創唱宗教に取って代わられた後にも、創唱宗教の中に取り込まれて自然宗教は存在し続けている。つまり、創唱宗教と自然宗教というのは、明確に分類できるわけでなく、ひとつの宗教の中に共存しているのが一般的である。
仏教は、釈迦が説いた教えをもとにする創唱宗教であるが、その長い歴史を通して、ヒンドゥー教(バラモン教)的要素、道教的要素、儒教的要素、そして神道的要素が加わっている。単純に、〈仏教=釈迦の教え〉ということでは、現実の仏教は説明できないのだ。
この〈創唱宗教/自然宗教〉という分類を、信仰する立場からとらえ直すと、〈教義的的信仰/儀礼的信仰〉と言い換えることもできる。
例えば、ここで「お経」というものを考えてみる。
お経とは、釈迦の説いた教えをまとめたものである。大乗仏典のように、釈迦が直接説いたものではないことが明らかなものもあるが、それはあくまでも文献学的な話であって、仏教徒には釈迦が説いた教えだと信じられている。
このお経というものは、極めて教義的な信仰に関わるものである。むしろ教義そのものと言ってもよい。
法華経には、五種法師という考え方が示されていて、法華経に対して、受持(じゅじ)、読(どく)、誦(じゅ)、解説(げせつ)、書写(しょしゃ)という五つの方法を納めることで、仏になれると書かれている。
受持というのは法華経を理解すること、読というのは法華経を読むこと、誦というのは法華経を唱えること、解説というのは法華経を他の人に説き伝えること、そして書写は法華経を書き写すことである。つまり、法華経の教えを理解し、読み、他の人に伝える、ことが大切だと言っている。
教義的信仰においては、このように、教義を理解することと、読むこと、他に伝えることが重視される。
ところが、お経が儀礼に組み込まれていくと、それが呪術的な要素を持ち始める。儀礼の中で読まれるお経は本来、前述の五種法師の中で言えば、読、誦、解説の役割を持つ。お経を読んで伝えるということだ。しかし、儀礼の多くは、何らかの目的を持って行われる。例えば、死者を成仏させるとか、願い事を成就させるといった目的である。
また儀礼で読まれるお経の内容(文意)は、儀礼の目的と直接的に関係していないことが多い。そもそも目的が違っても、同じ経文が読まれることが多い。
つまり、儀礼で読まれるお経には、お経の内容以上に、呪術的な「見えない力」が期待されているのである。
そもそも日本で読まれているお経のほとんどは、漢文である。その読み方も音読みで、呉音と呼ばれる古い中国の読み方が使われている。そのため我々は、お経を聞いても、ほとんど意味を理解することができない。つまり、儀礼における読経で、教えを「伝える」ということはできないのである。
それでも、我々はお経を聞いてありがたいと感じる。それはお経に呪術的な力があると信じているからである。お経は教義そのものであるはずなのだが、現実は極めて儀礼的な存在なのである。
つまり、お経を教義と捉えても、現実の仏教を理解することはできないのだ。
このように〈教義的信仰/儀礼的信仰〉という枠組みを取り入れると、今まで見えてなかったことが見えてくるのである。(続く)
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