【洋楽雑考#6】オリジナリティの源泉〜Van Halen <前編>
皆元気? 洋楽聴いてる?
音楽業界は相変わらずの苦境の只中にあるようで、エレクトリック・ギター名門メーカーの一つとして、常にギター・プレイヤーたちの憧れだったGibson社が倒産危機にあると報道されたり、全米で数少なくなったCD販売を行ってきた家電量販店Best Buyが、2018年7月から遂に店頭販売をストップすると発表したり。
こんな時期だからこそ、すかっと気持ちを楽にするアーティストの話題で行きたい。
というワケで今回のテーマはアメリカが世界に誇るバンド、Van Halen !!
と、勢いよくスタートしておきながら、自分でインネン付けるのも問題だと思うのだが、バンドの屋台骨であるアレックス(Dr)、エドワード(G /以下エディ)の兄弟は純粋なアメリカ人ではない。
オランダ人の父、インドネシア人の母をもつ2人は父の故郷オランダの生まれ。カリフォルニア州パサデナに家族で移住したのは1962年。
音楽家だった父、しつけに厳しかった母の影響で2人は子供の頃からピアノを習っていた。特にエディの腕前は相当なもので、ハイスクールのピアノ・コンテストで、何度も優勝する程だった。
ただし、彼は譜面を読むことは出来ず、聞こえてくる音を耳で記憶していたらしい。
当時のエピソードで、審査員たちから"君のテクニックは大したものだ。特に即興演奏のテクニックは素晴らしい"と褒められたエディは内心、"あれ?完全にレコードと同じに演奏しているつもりなのに。"と不思議がったという。
こちらも余談だが、エディのミドル・ネーム"Lodewijk"はドイツ語読みすると"ルードヴィヒ"...そう、ベートーヴェンから取られたものだ。
それもあり、彼の息子のファースト・ネームは"Wolfgang"。こちらはモーツァルトから拝借している。
クラシックの影響をルーツに持ちつつ、兄弟は同時にロックへ傾倒するようになり、最初はアレックスがギターを、エディはドラムを始めるようになるのだが、エディ不在時(ドラムの代金を支払うため新聞配達をしていたらしい)にアレックスが彼のドラムを叩くようになり、程なくして兄弟は担当楽器をチェンジする。
1970年代初頭、兄弟にベースを加えたトリオ編成(ヴォーカルはエディ)のGenesisというバンド名で活動し始める。
当時、頻繁に彼らと対バンになっていたのがデイヴィッド・リー・ロス(Vo / 以下デイヴ)。
デイヴのバンドRed Ball Jets からPAシステムを借りていたGenesisは、一種の経費削減でデイヴを自分たちのバンドに招き入れる(おいおい...)。
また、ベース・プレイヤーも程なくしてマイケル・アンソニーへと入れ替え、バンド名をMammothへと改める。
もちろん、イギリスにピーター・ゲイブリエル、フィル・コリンズらを擁した同名バンドGenesis がいたからなのだが、アメリカでは無名だったのかGenesis...
1974年には、バンド名がVan Halen と再び改められたのだが、意外にもそれを提案したのはデイヴだった模様。
"ロック界のせんだみつお"(1,000のエピソードでホントの話は3つだけ)と異名を取る(失敬)彼の話なので、鵜呑みにするのも何なのだが、"Santanaみたいなビッグな響きにしたかった"らしい。
アメリカ西海岸を中心にクラブ・サーキットを続けるセミプロ時代の彼らに目を付けた意外な人物がKISSのジーン・シモンズ。
ラジオDJにバンドの存在を伝えられ、実際に彼はバンドの初期デモ・テープをプロデュースしている。LA、NYの2箇所でレコーディングをした(しかも NYでの作業は、あのElectric Lady Studios !!) という事実からも、いかにジーンがVan Halenにご執心だったかは想像できるのだが、同時に彼はバンド名をDaddy Longlegsに変更することを指示。
"そ、それはちょっとあんまりじゃないすか、ダンナ"というやりとりがあったかは知らないが、そのオファーを蹴ったこともあり、ジーンは徐々にバンドから距離を置くように。
しかし、Mammoth、Daddy Longlegs、いずれもヒドいネーミング・センスである...
1970年台後半にはバンドの人気は西海岸ローカル・シーンで定着。オリジナルの他にも、約200曲のカヴァー・レパートリーがあったらしい。
ヴァン・ヘイレン兄弟の好みだったハード・ロックの定番ソングはもちろんだが、デイヴ(バンド加入前はソロで歌っていた時期もあった)の提案による、Ohio Players、Cool & the Gang といった、いわゆるパーティ・ソングもこなしていたらしい。
一見、まったく結びつきのないジャンルの音楽のエッセンスをオリジナル楽曲に(あくまでもさりげなく)加えることで、バンドの独自性を格段にスケール・アップさせる手法を若い彼らが持っていたことは非常に重要だ。
そんな彼らのウワサを耳にしたのがプロデューサーのテッド・テンプルマン。The Doobie Brothersや、Van Halen登場以前に西海岸を賑わせていた数少ないハード・ロック・バンドMontrose らの作品を数多く手がけていたテッドが、レコード会社Warner Brothersの社長とバンドをチェックしにLAのクラブを訪れたのが1977年半ば。
その1週間後には契約が決まったという逸話が残っている。
わずか3週間でレコーディングが終了したファースト・アルバム「Van Halen」(邦題:「炎の導火線」がリリースされたのが1978年2月。新人バンドとしては異例の全米チャート19位を記録する。
その成功に大きく寄与したのが、アルバム・リリース前にリリースされたシングル、イギリスのバンドThe Kinks (奇しくもこちらも兄弟バンド...ただし、兄弟の仲の悪さはOasis並み)のカヴァー「You Really Got Me」。
オリジナル・ヴァージョンからは想像も付かないような凄まじく歪んだギター・サウンドは言うまでもなく、バンドの持つポテンシャルを見事にパッケージしたこの楽曲。文字通り、世界中が驚嘆することになったのだった。
翌年春にはセカンド「Van Halen II」(邦題:「伝説の爆撃機」)を矢継ぎ早にリリース。この作品からは初のオリジナル楽曲によるヒット、「Dance the Night Away」が生まれている。
アルバムの冒頭を飾っているのはリンダ・ロンシュタットのヴァージョンで有名な「You Are No Good」(最初にレコーディングしたのは黒人女性シンガー、ディー・ディー・ウォーウィック。
ちなみに彼女はディオンヌ・ウォーウィックの妹で、ホイットニー・ヒューストンとは従姉妹の関係)。エディのチョイスによるこのカヴァー、最初にメンバーにお披露目した際、他のメンバーは何のカヴァーなのか全く分からなかったらしい。
全編オリジナル楽曲になったのはサード・アルバム「Women and Children First」(1980年リリース/邦題:「暗黒の掟」)が最初。
また、一般的に初めて彼らがキーボードをアルバムに導入したのは次作「Fair Warning」(1981年リリース/邦題「戒厳令」)と言われているが、実はこの作品。アルバム冒頭に響くノイズはウーリッツァー社製のエレクトリック・ピアノで作られている。
初期4作に付いている比較的おどろおどろしい邦題と、バンドの音楽性の微妙なギャップも面白いよね。たとえばJudas Priest やIron Maiden など、当時イギリスを中心に盛り上がりつつあったハード・ロックからメタルへの流れとは明らかに趣を異にしている。
当時の日本のレコード会社の諸先輩方、御苦労お察しします... その「Fair Warning」アルバムで、エディは、より複雑でシリアス、テクニカルな方向性を目指していたようで、実際、作品には彼の集大成とも呼べる凄まじい演奏が随所に収録されている。
しかし、デイヴ、プロデュースのテッドはその方向性に疑問を感じ、バンド内には隙間風が吹き始める。
エディはアルバムのツアー終了後、休暇が欲しいと望んでいたのだが、デイヴは1982年初頭を飾るシングルとして、Martha Reeves & the Vandellas の「Dancing in the Streets」のリリースというアイディアを持ち込んだ。
当然、"これをどうアレンジしろっていうんだ?オレには出来ない"と、エディは拒否。代わりにピックアップされたのが、今でも日本のCMでひっぱりだこの、あの楽曲。
ロイ・オービソンが1964年にヒットさせた「(Oh) Pretty Woman」のカヴァーはバンドの健在ぶりを示すつもりが、予想を超えたヒットを記録。当然のように、レコード会社はバンドにニュー・アルバム制作を急かし始める。
そしてリリースされたのが「 Diver Down」...収録楽曲12曲の内、なんとカヴァーが5曲(前述した"Dancing..."も最終的には収録)。
"この下に潜水夫/ダイヴァーあり"を示すフラッグをアートに使用した本作。"目に見えない水面下で本当の事が起こっている"というのはデイヴの言葉なのだが、バンドを取り巻く空気がポジティヴなものでなかったことは想像できる。
結果的に本作はバンドの歴史上、最も低評価な作品となった...唯一このアルバムでの微笑ましいトピックは、ヴァン・ヘイレン兄弟の父、ヤンがクラリネットでアルバムに参加したことか...現在のVan Halenのベース・プレイヤーは冒頭にも書いたエディの息子ウルフギャングなので、結果的にこのバンドには、親子3代が携わるという形になったワケだ。
このままバンドが失速することも危惧されたのだが、そう簡単にメゲる連中ではない。
1984年リリースのアルバム、そのままズバリの「1984」でカムバック...どころか、とんでもない成功を手にするのである。
<続く...>
※本コラムは、2018年3月16日の記事を転載しております。
■VAN HALEN オフィシャルサイト
■VAN HALEN(ワーナーミュージック・ジャパン)
■VAN HALEN(ユニバーサル ミュージック ジャパン)
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