「絵で食っていきたい」と思って、十数年。起業するまでにやったこと
私は、会社員1年、地方公務員6年を経て
娘がまだ1歳のころ…
29歳でイラストレーターとして独立しました。
現在36歳。
ありがたいことに、開業してから仕事が途切れたことがなく
共働き並みに家計に貢献できるほどには、仕事をしてきました。
今は、コミュニケーションや、人の中で生きていくことを学び
そこで出会った人たちと共に、もう少し色々な仕事に挑戦できるのでは?
もっと楽しいことができるのでは?
と企む日々です。
ここまで書くと、ほんと、順風満帆に見えますよね
でも、いろんな葛藤があってここまできたなーと思って。
最近、これから何かをはじめようという人たちが
周りにたくさんいるので、自分の開業するまでや、開業してからのことを
振り返ってみようと思います。
デッサンは諦めた方がいいよwww
物心ついた頃からお絵描きが大好きでした。
「漫画家になりたい」と思ったのは小4の時。
漫画が好き、というよりは
友達のお兄ちゃんが「漫画家になる!」と言っていて
「絵が好きな人の仕事には、漫画家という選択肢があるのか!かっこいい!」
とマネして言い始めたのがきっかけです。
それからは、小学校の自由研究でクラスメイトと先生を登場させた漫画を描いたり、「4コマ漫画入りの壁新聞」を勝手に作ってクラスに掲示したり
なぜか吹奏楽部に入部した中学時代も、友達と交換絵日記をして、アニメのイラストを描くのに夢中にもなり…
デッサンの学校に通い、デザイン系の高専(美大みたいなやつ)に入学。
絵が大好きな人生
なのに、なんということでしょう
私は絵が下手くそだったのです
デザインの学校に入って数週間で、先生に
「君、デッサンは諦めた方がいいよwww」と言われ
精鋭たちが集う学校では、絵の技術は中の下
デザインなんて下の下
自分が、デザイン事務所に就職するだとか
卒業してすぐに絵の仕事ができるイメージは湧きませんでした。
ストーリー漫画を描いてみるものの
途中で気づいてしまった
「架空のストーリーを創作するのが苦手かもしれない」
という事実…
漫画も、周りの人たちがうますぎて
見せるのも恥ずかしいレベルでした。
劣等感の塊だったな〜
これなら自信が持てる、楽しい
そんな時、学校の課題で出会ったのが
「イラストルポ」という手法。
「イラストルポルタージュ」の略で
筆者が実際に取材したこと、見聞きしたことを
イラストと言葉でまとめる、というもの。
もともと、手書きの新聞を作ったり
描いたイラストにちょっと文字を足したりするのが
好きだったのと
不器用ながら、人が好きなこと
思い出をいつまでも
鮮明に覚えていられること…などから
私にぴったりの手法だと思いました。
デザインの学校なので、周りの人はポスターやWEB、建築、工業製品、まちづくりにガーデニングなど…
ちゃんとデザインの勉強をする中で
「これしかできない」
そして
「これなら自信が持てる、楽しい」と、
小中学校の先生にアポをとってインタビューしに行ってイラストにまとめたり、地元の気になる店や、お世話になった人にインタビューしてイラストを描いたり…
そんなことしか記憶にありません。
(建築の模型を作るような課題とか、地獄でした。。目見当で図面を引いて、謎縮尺の模型を作って怒られる。)
これなら、絵が下手でも、絵と同じくらい好きだった言葉で補える。
インタビューを通して、作る仕事をしながら、人と関わり続けることもできる。
これが仕事になったらいいなぁ
就職活動が始まった大学4年生の頃
ぼんやりとそんなことを思っていました。
優等生でも感性でもない。体力と精神力のある子が欲しい
就職活動では
唯一、私がやりたかったことを実現できそうだ、と感じて
自分自身が大好きで愛読していた
北海道の情報誌を作っていた出版社を第一志望として、面接を受けにいきました。
勉強も文章も申し分なく突破。
最終面接まで進んだので、頼まれてもいない渾身の作品集まで持って挑みました。
結果は、散々でした。
いざ、話そうとすると、気持ちが一杯一杯になって
しどろもどろ。
本音と、いいことを言わなきゃ!が入り混じって
全然話すことができませんでした。
捨て駒みたいに受けた他の面接の方が、よっぽど落ち着いて話していました。
そんな時、面接官から言われたのは
「あなたの制作への想いはわかった。感性も素敵だと思う。すごくいい子なんだろうな、っていうのも伝わった。採用してあげたいって思うよ。
でもね。
出版社って、体力勝負なのよ。入ったからといって、好きな記事が書けるわけじゃない。お客さんとの調整、締め切り前の残業…
私たちは、体力と精神力の強い人材が欲しい。」
もちろん結果は不採用。面接の段階で号泣してましたね。
でも、面接官の方が行ってくださった
「あなたの本音はどこ?いいことを言わなくていいから、それを聞かせて。優等生でいいこと言ってたって、就職はできないよ」
という言葉は今でも忘れられません。何もわからない、しかも不採用になる大学生の私に、あそこまで向き合ってくださったことに感謝しています。
皮肉なことに、吹っ切れて次に受けた家具屋さんにあっさり就職。実家を離れて、道東で一人暮らしを始めました。
絵が描けるのは強み&大好きだったし
心のどこかで、いつか絵の仕事を…という気持ちもあったので
販売職をしながら、売り場のPOPをたくさん作ったり
社内用の啓発ポスターを頼まれて作ったりしていました。
休日には、自転車でカフェに行き、絵日記を描く。
プライベートで、友達の結婚式のウェルカムボードを無料で作るなど、絵を描くことは途切れないように過ごしていました。
家具屋さんは、ハードすぎて、心折れて1年で退職してしまいました。
公務員をしながら、定時で上がって好きなことをすればいいんじゃない?
心折れて実家で1ヶ月ほど療養していた時期
母が求人を持ってきました。
江別市職員。
当時は臨時職員の求人でした。
「公務員なら定時で帰れるから…市役所で働きながら、空いた時間で好きなことをすればいいじゃない!」
本当は、親に「家具屋を退職したら、絵で食っていくチャレンジをしてみたい」と話したところだったので不本意でしたが、今ほどSNSでフリーのイラストレーターなども見つけられなかった当時、それ以外の選択肢を自分で探すことができず、デザイン事務所などに入る自信もなく…
臨時職員→正職員の採用試験を受けて、正職員として6年働きました。
相変わらず、ポスターの絵を描いたり、退職者の似顔絵を描いたり
「お絵描き公務員」的なポジションで、家に持ち帰っては絵を描くことを自分に課し続ける日々を過ごしていました。
あと、いまどきの公務員は全く定時で帰れませんでした。普通に仕事でいっぱいいっぱいでした。
高熱が下がらなくなった
同じく公務員の夫と結婚し、市役所に入って4年目で長女を出産。産休育休に入ります。
産後の生活は、メンヘラ女だったしゃおりにとって
想像を絶するものでした。
乳腺炎体質で、ちょっと疲れたり、脂っこいものを食べたりすると
胸の激痛と共に40度の熱が出る、ということが続きました。
まだ、義両親との関係も全然できておらず、緊張と苦痛しかなかった時期…
義実家の親戚の家でめちゃくちゃ強く勧められたお菓子を断れなかった、というのが理由で、またおっぱいがつまり、高熱を出しました。
この時です。
プツンと何かが切れる音がしました。
もう、仕事やめよっかな
お菓子を断れなくて熱が出た。それをきっかけに考えが飛躍して
「もう、仕事辞めてもいいかな」に一気に至ったのです。笑
食べ物も疲れもそうだけど、我慢したり、ストレスを溜めたりすると
どうやら、熱が出るらしい。
今は授乳中だからそうだけど、昔からそうじゃなかったか。
好きなことをして、ストレスなく生きていないと、体に出る。
絵を描いて生きていきたいなぁ
できない理由を見つけては、がむしゃらに頑張ることもせず
やめもせず、ズルズルと細々と描き続けてきた心に、火がついてしまいました。
育休中の出来事でしたので
「復職2年をめどにやめようかな」
と考え、復帰しました。
結局、復帰してからも
発熱が止まらず、乳腺炎で42度を出したときに
「今年度で辞める」を決意することになります。
開業(退職)までの期間でやったこと①人に話す
「仕事を辞めて、絵で開業しよう」と決めてから
いちばんはじめにしたことは
「とにかく、人に想いを話す」
「先人に話を聞く」
でした。
仕事を辞めると決めた日の夜には
同じく、自分より1年前に勤めていた会社を退職し
会社を興した方にメールを送り
「お話を聞かせてください」とお願いしていました。
無料・有料関わらず色々な方に話を聞き、アドバイスをもらい
自分でも情報を漁って、できることを積み上げていきました。
勉強する、というよりは、起業に必要な情報を集めて、自分が何でなら食っていけそうかを考え続けました。
20代子持ち公務員の夫婦は、1人が欠けると生活できなかったので
開業してすぐに稼ぐ必要がありました。
そして、人に話す。
学校の先輩や先生との集まり
よく行くカフェ
(時効だと思いたい)市役所で働いていた時に取引先で出会った人たち
親戚や夫の友人の果てまで・・・年賀状にも書きました。
「1年以内にイラストで起業しようと考えている、起業した暁には、もし私にできそうな仕事があったら是非やらせてほしい、絵柄はこんな感じです」
人に会うたびに、手書きのイラストを入れた名刺?メッセージカードを持っては話をしていました。
夫からは「俺の知り合いに言いふらすなよ、なんか恥ずかしい」と謎のことを言われましたが
結果的に、開業2年目くらいまで、食っていくのにすごく助かる仕事を回してくれたのはお義父さんでした。
言いふらし、紹介していただき…
開業してすぐに出したメニューが
10分で満枠になる、という奇跡が起きました。
②無料の実績づくり
公務員だったので、お金をいただいて副業することはできませんでしたが
開業時に出したいメニューの元になるようなイラストを
無料で何枚も描かせてもらいました。
自主制作も。
この頃はまだ「イラストルポなんてどうやって仕事にするんだ?」状態でしたが、これしかなかった。
③他者目線を入れてメニューやサイト・名刺を作る
今もお世話になっている「好きを仕事にする大人塾 かさこ塾」塾長のかさこさん。(今はKindleを鬼のように出版したり、オンラインセミナーもいっぱいやってます)
実は、私が退職を決めたのはかさこさんのこのブログがきっかけでした。
退職する直前の1〜2月に「かさこ塾」が開催されたので、迷わず入塾。
そこで、過去の人生の棚卸をしながら
・活動理念
・活動の肩書き
・提供メニュー
・ブログ
・ホームページ
・名刺
などを、添削を受けながら宿題として作りました。
これは本当によかった、宿題で締め切りがあったのがよかった。
編集者でもあるかさこさんの他者目線を入れて思ったのが
自分で思う自分のイメージや想いが、めちゃくちゃ独りよがりだったこと…
当時のテキスト資料を見ると
「こんなこと言っとったんか、、、」と
顔が赤くなります。。見てもらってよかった…
それを正してもらい、お客様の求める形にして、リリース。
ブログは、開業の数ヶ月前からこっそり始めました。
かさこさんに見ていただいて
「すごいじゃないですか!!!絶対仕事になりますよ!!!」と
お墨付きをもらえたことに安心して
イラストルポで販促を作るという
あまりやっている人が少ないことを仕事にすることを決めました。
④やった結果
色々やった結果、開業して最初の数ヶ月で
・イラストルポは10件の枠が10分で埋まり、数ヶ月待ちに
・地元銀行のイメージキャラクターの仕事を引き継ぐ(義父からの仕事)
・同時期に開業した友人たちの販促手伝い
・元職場の人たちから名刺や似顔絵の仕事→打ち合わせにいくと、大きなパンフレットの仕事の相談などもらえるように
などができるようになりました。
そこからは、トライ&エラーを重ねて、今に至ります(7年を一言でまとめすぎ)(トライ&エラーの話は山ほどあるのでまた今度)
逆に体がおかしくなるほど忙しくなるくらい…🤣
⑤まとめ
いっぱい書いたので
「すごいなぁ」「ちょっと気が遠いなぁ」
と思われたかもしれないですが
挑戦したいけど、すぐにきっかけが掴めない時
・先が見えないうちにも、とりあえず積み上げておく
・今だ!と思ったら一気にやるべきことをやる
それだけで良いのかもしれません。
決めてからは早かったですが、それまでは
「がむしゃらになれるわけでもなく、諦めることもできない」
中途半端な状態がとっても長かったです。
学生時代にもっともっと練習して上手くなって、公募を探して応募することだってできたし、下手でも漫画投稿を頑張ることだってできた。
でも、しなかった
それでも、追い立てられるように踏み出すことができたのは…
体調を崩して、追い立てられた上に、すぐ稼がないといけない状況だったからでしょう
当時は体調も辛かったし、不安で必死だったけど
あれはチャンスがピンチの顔をしてやってきたってことだったのかな
今は思います
そして、開業前に7年の会社員・公務員の経験があったことも
今となっては本当によかった。
ただでさえ世間知らずだった私
22歳でフリーになってたらどんなモンスターになってただろ…
そう考えると
今がベスト
選んだものがベスト。
そして、いつからでも遅くない。
私だってやりたいことまだまだいっぱいです。
開業してからのトライ&エラーも山ほどあるので
契約書を作った話とか、メニューを増やしたり、価格改定をするタイミングとかとかとか…また仕事の話も時々書きますね
長い文章、お読みいただきありがとうございました!
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