自由ってなんだろう*「母という呪縛 娘という牢獄」を読んで
「母という呪縛 娘という牢獄」というタイトルにとてもドキッとした。
この時代に男だから女だからというようなジェンダー論を発言するのはどうなんだろうという気持ちもあるが、あえて言う。
母と娘の関係性は特別だ。
わたしには子供がいないので身を持って感じるのは娘側の視点のみではあるが、
娘にとって母親とは、母であり、友達であり、先生や師匠であり、目標であり、憧れであり、反面教師であり、呆れや憎しみの対象であり、安心であり、気をつけないと境界線がなくなってしまうほど一体である。
この本は実の母親を殺害してしまった娘の記録。ノンフィクション。
ここに記されている妙子(母)とあかり(娘)の関係性はとても異常である。特に妙子の行動や言動は狂気じみていて恐ろしいし、あかりに心底同情した。
ただ、それだけの異常性を感じながらも、妙にリアルだと思った。
いやノンフィクションなんだから当たり前なのだが、人ごとではないという焦りにも似た感情がこの本にわたしをのめり込ませ、こんな母娘って実は他にもたくさんいるのではないだろうかと容易く想像させてしまった。
母親は娘を自分と同一視している。そして多くのケースにおいて母にその自覚はない。娘の評価は自分の評価なので、娘が優秀であることは母にとって誇らしい。
“子供が褒められたら親は喜ぶに決まってるじゃないか!”という声が聞こえてきそうだが、そのときの感情をもっと細分化してよく考えてみてほしい。
なぜ嬉しいのか。
子供がうれしそうだから?自分まで誉められた気がするから?
褒められているのはあくまで子供であって親ではない。
親の教育の賜物だと思いたい気持ちもわかるが、親子とて違う人間なので、思考も感情も子供のものである。
そしてなかなかそこを分断できないのが母親という生き物であり、さらに、そんな母親の期待に応え続けることこそが愛される資格になると思い込んでしまうのが娘なのだ。
この共依存関係から解き放たれることこそが自由だと思うが、それは即ち離別を意味する。こんなにお互いを必要としているのに、いなくならないと自由にはなれない。なんて皮肉なんだろう。
わたしも少し前まで母親と距離を置いていた。母が無自覚にわたしを飲み込んでいることに気付いたから。気づかなければ母がわたしに侵食してきて境界線を溶かしていたとおもう。
先日久しぶりに母に会った。母は境界線を思いっきり示したわたしに少し驚き、戸惑っていたと思う。でも、わたしは自由になれた。いまわたしを生きることができている。やっと。
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