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「わたし、Xやめたの!」と彼女は言った。

IT業界の仕事に就くため、とある学校に通っていた頃のこと、20代前半か、せいぜい半ばぐらいの女子が言い放った言葉です。
「え?なんで?」
と周りの子が訊きます。
わたしを含む5人ぐらいで、食堂でランチを食べていました。
5人の中で、40代のわたし、若村紫星が1番年上です。残りの4人は20代前半~30歳前半の女子でした。

Xをやめると言った子が言いました。
「だってね、今、Xって知ってる?『おすすめ』って機能があるんだよ!そこに、『これ、おすすめだよ』みたいなのが勝手に、どんどん、どんどん、流れてくるんだから!」
彼女は興奮気味である。
「いや、別に、自分がフォローしたやつだけ見りゃあいいじゃん?」
と30代の女子が彼女の強い口調に呆れた様子。
「いや、ダメよ、あれは。あんなの見てたら、時間が過ぎちゃうもん!」
と彼女はかたくなでした。

彼女はわたしと違ってITが得意そうで勉強に熱心でしたし、はきはきとした物言いで、見た目も、もし、出会いのサイトに登録しようものなら、すぐ声がかかりそうなぐらい可愛らしく、今風のおしゃれをしていました。
人は見た目で判断できぬものではあるけれど、それにしても、若い彼女がXを、それも「おすすめ」をなぜそうまで嫌うのか、その時、わたしは全く理解できませんでした。
ただ、ポカーンとして、頼んだAランチをパクパク食べているだけでした。


40代でX(Twitter)をはじめる。

今年の7月末、わたしは『世界一やさしい やりたいことの見つけ方』という本で有名な八木仁平さんの「自己理解プログラム」という、自分のことを知って、3か月で「やりたいこと探し」を終わらせるプログラムを受けました。
受けた結果、やりたいことが見つかる以外にも、自分を好きになれたりと色々いいことがありましたが、そのプログラムに「SNSの活用法」と言った内容の特典がついてきました。
どうせ特典とあまり期待していませんでしたが、内容は濃く、実践向きだったので、ここでもいい意味で裏切られました。
その特典を見た後、「ビジネスではSNSで情報配信するのは今や常識だ」と思うようになりました。

そんなわけで、今、わたしは、情報配信しているわけですが、その中で、Xを本格的にやってみることにしました。
実は、Xは去年の8月から別の名前ではじめていました。その時点ですでに40歳を超えていました。

わたしは、最初、スピリチュアルな、それも高次元スピリチュアルという、かなり特殊な分野の投稿をしていました。
高次元スピリチュアルのブログもやっていましたが、Xの方が短文で投稿するのも簡単だろうと思っていました。
それに、高次元スピリチュアルを広めたいと思っていたので、Xの方がより見つけてもらいやすいだろうと思ったのです。


レトロにハマる若者たち。

わたしがXをはじめた、去年の8月頃。クリームソーダ職人tsunekawaさんという美しいクリームソーダを作り、SNSに写真をアップしている人を知りました。
文豪クリームソーダという、その方のレシピのクリームソーダと文芸作品をコラボさせたイベントが開かれるということで、そのクリームソーダを飲みに行きました。

「こんな仕事をしている人もいるんだ」。
と太宰治の『女生徒』をイメージした幻想的ながら可憐な飲み物を堪能しながら思いました。(カバー写真がそのクリームソーダ)
まだ八木さんの上で紹介した本を読んだけで、「自己理解プログロム」を受けていなかったのですが、自分のやりたいことを仕事にするということに憧れのような感情を抱きました。
しかし、すぐに、「ああ、いけない。すでに、1回、小説家で挫折しているのに、何を今更」と自分で思い直しました。しかし、一度消えた炎に再び火か灯ったような、そんな感慨がありました。

また、そのクリームソーダを飲んだ時に、少し前からその気配をひたひたと感じていた、レトロ・ブームの煽りをもろに感じました。
『いとエモし。』という古典を現代風に超訳した本から、フランスやアメリカにあるようなカフェでなく、日本の「純喫茶」、アデリアレトロなどに代表されるようなノスタルジーを感じさせる食器類など。
また、くじらさんの曲などを聞くと、日本語で、今の日本の、特に都会の若者の心のあり様を叙情的に歌っている。
そして、わたしが個人的に知ったYouTubeの「しおん。」というチャンネル。このチャンネルの主である仮奈紫音(かりなしおん)さんという人は、20世紀の日本の文化が大好きだということで、竹久夢二や谷崎潤一郎など大正時代のアーティストや作家、さらには昭和の白黒映画時代の俳優について調べて投稿している。
こうしたものが、Z世代や若者の中を駆け巡っているのだと知りました。


システムと欧米大好きな世代の男性。

なんで、男の人だけですのん?変な言いがかりではないの?女の人はどうなの?と言いたくなる人はいるかもしれません。
しかし、上のレトロブーム。やはり女性も好きだったりするのですよ。
特に、クリームソーダ職人さんが作るクリームソーダの色合いや、純喫茶の雰囲気なんて、まさにそうですよね。
というか、女性って結構、その辺り「あいまい」だったりします。欧米風のカフェもいいけど、「可愛いもの」があるところなら、純喫茶でも全然良かったりします。

一方で、世の中は、どんどんデジタル化が進んでいるように見えます。とくにコロナ以降、その傾向が進んだようで、オンラインで自宅で仕事をする人が増え、IT業界が大躍進をしているように見え、AIの台頭と目まぐるしく変化しているように見えます。
「見えます」というのは、実際のところ、日本人が内面的にこれらの変化を受け入れているのか、そして、実践してそれに対応しているのか不透明だからです。
しかし、これからのIT業界に大いに期待し、依存し、システム化しようとしている一部の人がいるのも事実です。そして、日本の政府もまた、デジタル化を推し進めています。

こうしたITでシステム化したい人たちって、どんな人たちだろうと思うと、それは、おそらく30代以降世代の人たちだと思うのです。
そう、「Mac持って、スタバへ行く」のがカッコいいと思っていた世代(の主に男性ビジネスマン)です。


昭和・平成の重い空気感

今、30代以降の人たちというのは、昭和、平成のある種の「重さ」を経験しています。
調べものも今のように検索でサクッととはいきません。メディアも限られています。人付き合いも濃厚で、仕事での飲みなどは参加必須です。
わかる人にはわかるであろう、あの、ねっとりとした空気感。そして、なんともいえない「ダルい」、停滞した社会。
これは今風の「ダルい」と呼ばれる感じ以上の、ガチの「ダルさ」なのです。

こうした「ダルい」感じを全てなくしてしまいたい!そんな感覚で、バッサバッサと不要なモノを削り、スマートでカッコいい、なんかシリコンバレーにありそうな仕事スタイル、海外でも通用しそうな俺、グローバルな感じ!そんな風に生きたい、そうしたい!そうしよう!
そんな欲求のもと、何だか進んでいるのが、今のシステマティックな日本社会だと思われます。
とはいえ、これもまた、日本の一側面に過ぎません。
また、こういうシリコンバレー風な仕事してそうな人が、世界中の優秀な人材と繋がりながら、でも、なんか「とはいえ地域社会とのつながりが大事だ」とか「自然も」とかも言って、自給自足したり、ソロキャンとかしたりマインドフルネスしたりしています。


はい、こういう全ての人たちの日常が交錯するのがSNSです。

冒頭で話した若い女子が「やめた」Xをはじめ、SNSで消費されている世界というのは、こういう相反する時代感やものが、物凄いスピードで交錯しあっている世界です。
わたしは、自動車教習所に通っている時、教官と共に一度だけ高速道路を走りました。その頃、職場の先輩と話していて、先輩が「免許取ってすぐ首都高とかは、マジでキツイから」と言っていました。
XやInstagramの投稿を見ていると、まさに、その若葉マークでは怖い首都高のようです。
一瞬にしてたくさんの投稿が行き交うのです。そして、旬な人にはお盆休みの渋滞のように長い投稿を待ちわびる人の列ができ、投稿されると、我先にと反応します。

ところで、こういう世界に自己理解プログラム後、40代で本格参戦した身(その前までは自分の趣味でやっている感じだった)で、わたしはとうとう、冒頭の彼女が「おすすめ」に興奮して反抗していた意味がわかりました。
Xの「おすすめ」には、こちらが1回アクセスした、あるいは興味ありそうな投稿をX側が分析して表示してきます。
わたしも、最初は自分がフォローしたやつだけ見ればいいと思っていました。
しかし、しだいにそれだけでは飽き足らなくなり、「何か他に情報はないか」と、「おすすめ」のほうも見るようになってしまったのです。
そして、不思議なことにXをよく見るようになってから、Instagramのほうも気になりだし、よく見るようになりました。
こうして、20日間ほど、どっぷりSNSにつかり切ったのです。


虚しさの正体

SNSの虚しさの正体、それは、極めて表面的な浅いコミュニケーションということでした。
なんだ、そんなことか。そんなの知っているよ、インスタ映えするための写真だって作られたものだし、自撮りだって加工されたものだってことでしょう?みんな虚構なんだよ。
もちろん、それもあります。
しかし、もっと別のことを言えば、それは、

結局、何も体験していないのと同じだった…

ということなのです。

例えば、新しい本が出版されたという投稿があったとします。それで、その本や出版される日を知ります。
それで、自分は本が好きだから、読書が趣味だから、こういう本の情報をフォローしているんだと思います。
しかし、本当は、その本を買い、その本を読み始めたところから「読書」がはじまるのです。
そこからが、「本番」です。
しかし、SNSをあちこち見ているだけの場合、全て、何かの「手前」で終わってしまいます。
すべて何かをする前、0スタートにも立つ前の「未満」の状態のまま、そうしたものをたくさん束にして持っているようなものなのです。

これでわかるのは、「自分は何もしなかった」し、「何も経験していない」ということ。ただ、誰かが何かをした報告を、ただひたすら眺めていたというだけだった、自分は部外者だったということ。
この疎外感が、自分が置いてけぼりのダメな奴であるような印象を自分に植え付けます。
しかし、周りは止まりません。なんせ、ここは、首都高なのですから。制限速度まで、みんな突っ走っているのです。


でも、耐えられる「軽さ」にする。

おそらく、長い間、こうしたSNSが普段使いされている世界にいた若い世代の一部は、SNSの寒々しい側面に嫌気がさしつつも、しかし、生活の一部としてすでに馴染んだものとして、絶妙な距離感を取っているのでしょう。
IT業界の成功者たちを嬉々として崇めているのは彼らよりもう少し上の世代かもしれません。

このブログは、自分を愛することに特化したものです。
そして、自分を愛する過程は他人を愛するのと同じ道筋を辿ります。
つまり、自分を愛する上で大事な自分のことを批判せずに深く知ることは、他人を愛する上でも同じく重要なことです。
そうした観点からすると、極めて表層的な景色しか見えないSNSの世界は、「愛する」ということには、全くかすりもしない、最も無縁な世界かもしれません。
自分にしろ、他人にしろ、深く愛するには、その「深淵」を覗き込む必要があるからです。
そう、愛って、時に「重い」ものなんです。
なにか、SNS検索で答えを知る時のように、即時解決とはなりません。

SNSを止めることまで推奨しないのは、SNSはこの愛に関連する感情に限らず、人生で経験する重苦しい感情を脇へそらし、霧のように消えさせることができるからです。
SNSにあるこの「軽さ」を利用しない手はありません。
そしないと、あの昭和・平成に漂っていた、じめじめした重たい空気感を背負わなくてはなりません。
そうなると、生きていることさえ苦しくなります。そういう時、SNSのあのちょっと、無責任な「軽薄さ」に逃げてみましょう。
まるで、車の少ない真夜中の高速を突っ走るように。
そんな風に「時間をつぶす」ことも、時に、人生には必要よ!、とこの歳になると思うんですよね。



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