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灰色の日は、「ただのわたし」を生きることにする

周りにある何もかもが灰色に見える、心が乾いてささくれ立つ日がある。

小さな違和感が、乾いた自分の心に「カーンッ」と大きな不協和音を立てて響く。普段ならさらりと流せるようなことが引っかかり、そんな自分に対して「はあ」とため息をつく。

重たい頭を上げて、わたしを抜き去っていく人々へ目を向ける。みんな立派な社会の一員という顔をして、うまくやっているように見える。

どうしてわたしだけ、こんなにダメなんだろう。

やさぐれた気持ちをどうにかしたくてコンビニに入る。自分の機嫌をとるためにミルクティーを買ってみるけれど、一口飲んで「これじゃない」と気づく。両手で包んだ温かいペットボトルが色を失う。また、ため息が出る。

こういう日が、たまにある。

体調の問題だったり、心の調子だったり、理由はさまざま。

とにかく、普段ならキラキラして見えるものでさえ、すべて色を失う。世界は灰色。それでも社会は動く。そして、わたしだけが取り残される。

そもそもわたしは、この社会を生きるには、あまりに不具合が多すぎると思う。どう考えても2022年に合う設計になっていない。情報の許容量が少ない脳も、社会の流れについていけない心も、「どうしてこんなにダメなんだろう」と思う点は挙げ出したらキリがない。

でも、「どうして」なんて考えても意味がないことだけは、30年間生きているとさすがにわかる。

不具合が多かろうが、世界が灰色になろうが、日々は進むのだ。

考えても仕方がない。そうわかっているけれど、楽しさのカケラも感じられない灰色の今日は、重苦しくて支えきれない。

「せめて」と思って、お花を買う。

少し心が落ち着くのは、お花の彩りのおかげが半分。もう半分は「それでもお花を飾る余裕のある自分」という安堵だろうか。

いつからか、こうして落ち込んだり悩んだりしていることを口に出すと、「松岡さんも、そうやって悩んだりするんですね」と言われるようになった。その言葉はたいてい、驚きと安心の色をまとっている。

ひょっとしたら、悩まなさそうな人に見えているのか、悩むことから上がった人に見えているのかもしれない。自分以外の誰か、特に「悩んでいなさそうに見える人」が苦悩している姿を見ると「同じ人間なんだ」と安心することは、わたしにもある。だから、その気持ちもわかる気がする。

「松岡さんも、そうやって悩んだり落ち込んだりするんですね」

そう言われるたび、わたしは「もちろん悩んでばかりの日々ですよ」と答える。

そしてちょっとだけ、危機感を持つ。わたしは自分を綺麗に見せようとしすぎているかもしれない。本当は世界が灰色に見える日もあれば、「どうすればいいんだ」と頭を抱えたり、「もう嫌だ!」と投げ出したくなる日もあるのに。

灰色の一日は、無理に前を向こうとしたり、元気を出そうとしたりして、どうにかなるものではない。

だからといって社会から浮いている感覚をうれいたり、ぽんこつな自分を悔やんだりしでも、気持ちがよくなるわけでもない。

こういう日は、全部見ないフリをするのが一番。

見たくないものを見ないこと。社会に蓋をして。スマホもオフに。自分に閉じこもってしまえ。

そう、だから今日わたしは「社会のなかのわたし」ではなく「ただのわたし」を生きる。

明日には、色が戻るだろうか。

できれば色彩豊かな日になって欲しい。でもまた灰色だとしても、それはそれで仕方ない。

もし明日も灰色だったら、また「ただのわたし」を生きる一日にしよう。日々に色が戻る、その日まで。


***
おわり

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