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仏像で知る日本史

どうもハリーです!今回は仏像を掘り下げていきます。観光地の目玉にもなる仏像ですが、仏像の種類や手の形、歴史的背景を気にしたことはありますか?これを読めばあなたも仏像マスター間違いなし!

仏像の種類と手のサイン

仏像とはもともとブッダを模造したものです。

そんな仏像には種類があるんです。
まずは如来。彼らはいわば仏像のボスですね。
如来とは「悟りを開いたブッダ」という意味なのです。

次に菩薩。如来が悟りを開いたブッダならば、菩薩とはまだ修行中の王族時代のブッダを模造しています。ここでブッダの経歴をおさらいしておくと、ブッダはインドの王族という恵まれた身分でした。しかし周囲の人との差に疑問を抱き、生きることも死ぬことも苦しみだとした彼は仏教をもって苦しみから逃れようと悟りを開きました。

話を戻して、、、次に明王です。
明王といえば不動明王が有名ですが、他にも軍荼利明王やら金剛夜叉明王などがいます。明王は右手に剣、左手に縄をもっています。彼らはブッダの教えに逆らう人を取り締まる役割があります。左手の縄で自由を妨げ、右手の剣で悪しきものを討ちます。

最後に天部です。彼らはいわばブッダのSPで東西南北それぞれ持ち場があり、4体います。東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天ですね。

皆さんは旅行先で仏像の手を見たことはありますか?変なポーズをしてる仏像がほとんどだと思います。これも意味があるんです。

手のひらを見せているのは、怖がらせないため、手のひらを上に向けていればあなたの話を聞かせて欲しいわけです。他にも両手を重ねていれば瞑想の最中、指で輪っかをつくっていれば話を聞いて欲しいサインです。

仏像の歴史

まずは仏教の誕生から見ていきましょう。
先程少し説明した通り、王族のブッダが身分制度に反発し、仏教が誕生しました。ブッダの死後(入滅という)、信者によって仏教は2種類に分かれました。ひとつは上座部仏教、もうひとつは大乗仏教です。前者は自己鍛錬が重視されました。禅もこのルーツをひいていると言えます。後者は仏教の教えで大衆を導くことが重視されました。つまり政治に向いていたのです。この大乗仏教が日本にも流れてきます。

飛鳥時代、仏教が日本にやって来ました。同時に朝鮮からの渡来人である仏師らによって仏像も輸入されました。飛鳥時代の仏像は大変特徴的なゆえに北魏式といわれました。特徴としては衣服があったり、左右対称な体つき、アルカイックスマイルという微笑などが有名です。

仏教が日本にある程度広まり、日本にもお寺がぽつぽつと建立されるようになると、日本風な仏像が増え始めました。つまりマネをやめて、オリジナルをつくったわけです。これを国風文化といいます。

この頃の仏像は模型に肉付けしたり、漆を塗って乾燥させる作り方が主流でした。アルカイックスマイルは消えて、ガタイも良くなりました。模型なのである程度は太くなるんですね。

聖武天皇によって奈良に都が移動したころ、遣唐使によって中東ペルシアの文化が輸入されました。また国内では増えた寺を統率する国分寺や国分尼寺が建立され、唐招提寺にて鑑真によるお坊さんの育成が始まりました。

ペルシアの文化を受けた仏像は1本の木を贅沢に使ったボリューミーな仏像が有名となりました。

奈良では仏教の布教によりお坊さんの権力が強くなりました。桓武天皇は彼らから逃げるように都を京都に移しました。

奈良ではその後、南都六宗という仏教の派閥が生まれ、庶民へ布教を始めていきました。これに困った桓武天皇は最澄と空海に頼んで、教えを秘密とする密教という自己鍛錬や修行が主となる派閥をつくらせました。修行メインなのでお寺も山奥にあります。

ここで大事なことは身分の低い人に広まる宗派は行政側からすると都合が悪いわけです。なので桓武天皇は自分たちで勝手に修行をする宗派を推したわけです。

末法思想が流行りだした世の中では仏像の力は強大でした。ちなみに末法思想とは簡単に言うと地球滅亡論です。彼らは迫り来る災害や疫病がこの末法思想の前兆だと怖がり、仏像を大量につくることが天国への近道だとしました。これらの仏像は京都の三十三間堂に奉納されました。

この頃の仏像は組み立て式でした。簡単に大量に作ったわけですね。

武士の世界になると、ムキムキの仏像が評判よく、運慶 快慶によって金剛力士という強そうな仏像が作られました。その後、仏像文化は少しずつ衰退し、最後は庶民専用のものとなりました。

今回は以上です。もっといろいろ勉強してみたいと思った人は僕のインスタへ↓↓↓
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