出雲の大神にお祈りあそばす
※引用した元の児童書の文章では柳原愛子のフリガナが「やなぎはら あいこ」となっていますが、正しい「なるこ」に直しています。
大正天皇は権典侍(明治天皇の側室)柳原愛子の子どもとして明治12年《1879年》8月30日に生れました。
先に生れた二人の皇子が早逝する中での待望のお世継ぎ誕生でありました。
大正天皇の御称号(皇族本人を指す尊称)は明宮。名は嘉仁親王。
大正天皇は生涯体調不良との戦いを続けた天皇でしたが、幼少期は特に重い病にかかることが多く、周囲の人々を心配させたということです。
また、玉体が御丈夫でない(体が弱い)ことは、天皇を現人神としていた大日本帝国としては、国の根本にかかわる問題でした。
私が京城(ソウル)で国の重要任務に当たっていた引揚げ者の集まりで聞いていたのは、「大正天皇の周囲の人たちが、出雲の大神に祈られていた。そのため朝鮮半島の計画に深く影響を与えていた。」という話でした。
確認を取るため史料を探していたのですが、児童文学レベルに掲載されている話とは思ってもみませんでした。
出雲の大神の祟り
「出雲の大神」は大国主神とされていますが、この出雲の大神に祈って病が癒えた話が別にあります。
「古事記」の「垂仁記」に登場する「出雲の大神の祟り」という説話です。
ダイジェストで説明します。
垂仁天皇の皇子本牟智和気命が長じてからも言葉を話すことがなかった。落ち込んでいた父である垂仁天皇は夢の中で「我が宮を天皇の御舎のように造れば、御子は必ず物を言うであろう」と教えられ、皇子の物言わぬことが出雲の大神の祟りとわかった。
そこで皇子に曙立王とその弟の菟上王の二人を伴わせて出雲に詣でさせた。
出雲から帰る際、肥川に橋を渡し仮の宮殿を建てて休んだ。そこに出雲国造が青葉で飾った仮山(築山)を作り、肥川の川下で食事を献上しようとした。この時、初めて皇子は口を開いた。
「この川下の青葉の山のようなものは、山に見えるが山ではない。もしかすると、出雲のいわくまの曽宮の葦原色許男大神(大国主神)を祀っている祭場だろうか」と話した。
そこでお供をしていた曙立王と弟の菟上王も喜んだ。皇子を檳榔の長穂宮に移すと、早馬を走らせ天皇に報告した。
天皇はこれを喜び、菟上王を出雲に戻して出雲の大神の宮を造らせた。
また鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を設けた。
というものです。
この説話から町名を付けた場所がありました。
京城(ソウル)青葉町
こちらはオリジナルの国立国会図書館所蔵「京城府全図」昭和9年(1934年)京城府土木課製。昭和61年(1986年)謙光社復刻発行版になります。私が地図を探しに国立国会図書館を訪れた頃は、館内閲覧のみでした。それをコピーサービスで複写してもらい持ち帰りました。
引揚げ者の集まりで使われていた地図は、こちらではありませんでした。当時京城(ソウル)から引揚げた日本人のうち、連絡の付いた人たちが自分たちの記憶が鮮明なうちにと力を合わせて作った地図だったと記憶しています。
さらに、それをコピーしていただいたことをハッキリと覚えているのですが、残念ながら父の介護のために住み替えた際に紛失したと思われます。
「京城府全図」は白黒で不鮮明なうえ、一部記載間違いがあったため修正、自分で着色しました。
そちらを使って説明していきます。
こちらが京城(ソウル)に付けられた出雲と縁のある町名の一つで、「垂仁天皇の皇子本牟智和気命」の説話に因んだ、「京城府青葉町」になります。
そのすぐ近くの線路が多数描かれている施設が「京城駅」です。大東亜戦争敗北後に建国された現在の韓国の首都の駅、初代ソウル駅としても使われ、現存しています。
南大門停車場(京城停車場)
現存する京城駅に建て替え前の「南大門停車場(別称、南大門駅、京城停車場、京城駅)になります。
写真 朝日新聞写真班 撮影『ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖』東京朝日新聞会社 明39.10. 国立国会図書館デジタルコレクション。
こちらは、大正3年(1914年)の京城府市街疆界圖(境界図)、南大門停車場周辺になります。元の地図が不鮮明のため見えにくいですが、地図の右側には、まだ朝鮮神宮がありません。
次が京城府全図・昭和9年(1934年)京城府土木課製になります。
昭和9年(1934年)ともなると駅名も京城駅表記に固まり、駅と同じ年の大正14年(1925年)に工事が完了した朝鮮神宮が、地図右側に描かれています。
そして朝鮮神宮の階段(細かく線が入っている部分)の先に、新しい地名が付けられていました。
京城(ソウル)御成町の由来「1」
貴人が御成になられた神聖な場所を示す町名「御成町」。
この町名の由来となった南大門停車場を使用した「雲の上の方」が、大正天皇(訪韓当時は嘉仁親王)でした。
嘉仁親王(大正天皇)を迎える際に装飾が施された南大門駅(南大門停車場)です。
明治40年(1907年)10月16日、海軍大将有栖川宮威仁親王が随伴し、仁川港に上陸。そこから特別列車での京城入りでした。
明治維新後の近代皇室初の外国訪問は、この嘉仁親王(大正天皇)の訪韓となります。
そして、生涯健康問題を抱えていた嘉仁親王(大正天皇)にもかかわらず、これより5ヵ月前の5月10日には「山陰行啓」を行っていたのです。
そのため、およそ1ヶ月間を要した鳥取・島根への長旅を終えた同じ年の外遊という、体への負担が大きい強行スケジュールとなっていました。また、この「山陰行啓」の際には、島根県にて出雲大社に参拝されていました。
京城(ソウル)御成町の由来「2」
そして「御成町」という町名には、もう一つ重要な意味が掛けてありました。それは、神代の昔、天よりこの地に降り立たれたと伝わる神の存在でした。
そのことを記した日本書紀によれば、
素戔嗚命は姉である天照大神との誓約の後に慢心し、高天原を追放された。そして、息子の五十猛命と共に朝鮮半島の新羅国の曾尸茂梨に降り立った。
しかし、素戔嗚命はこの地に居たくはないと言い、土で船を作り東に渡り、出雲国の斐伊川(古事記では肥川)の鳥上山(船通山、鳥取島根の県境にまたがる山)に辿り着いた。その後、素戔嗚命は八岐大蛇を退治した。
という、出雲の神話になっていました。
天照大神を祀った朝鮮神宮の天(高天原)へと向かう階段。これを降った先に付けられた町名「御成町」。
このように、素戔嗚命が御成になられた朝鮮半島の新羅国の曾尸茂梨が京城(ソウル)であることを示していたかのようでもあったのです。
さらに以前 に紹介した「新羅の建国は出雲族が行った」という大東亜戦争敗北までの日本の歴史認識と合わせる時、嘉仁《よしひと》親王(大正天皇)の訪韓はまるで、古事記の出雲の大神のもとを訪ねた垂仁天皇の皇子本牟智和気命の説話に倣ったかのような行事となっていたのでした。
出雲は何処にあったというのでしょうか?
まだまだ日本と朝鮮半島をつなぐ出雲の話は続きます。
今回はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。