三河の徐福と秦人
愛知県豊川市下長山町の熊野神社は東三河の牧野氏が尊崇した神社でした。
この神社は古くは熊野権現社と呼ばれていて、宝飯郡に移り住んだ徐氏古座次郎(秦氏)が創建したとも伝わっています。
尾張三河(名古屋市・愛知県)の郷土史料を集めた、「尾三郷土史料叢書」より三河国八郡、碧海郡・賀茂(加茂)郡・幡豆郡・額田郡・宝飯郡・設楽郡・八名郡・渥美郡の位置を示した略図になります。
オレンジ色のマーカーが徐福(徐市)一行が船で来訪、住み着いたとされる宝飯郡で、その上に大きく描かれている山が三河富士とも呼ばれる本宮山です。
徐福(徐市)の来訪時期は記録によって違いますが、第7代孝霊天皇72年の場合で推定紀元前(BC)229年になり、第10代崇神天皇の場合で推定紀元前(BC)97年~30年になります。
紫色のマーカーが徳川家康が生れた龍頭山 岡崎城のある愛知県岡崎市になります。
徳川氏と前身の松平氏は15世紀初頭に賀茂(加茂)郡 松平郷の国人領主(その土地に住んでいる領主)松平信重の婿養子となった松平親氏を始祖としています。
秦国とは紀元前221年に史上初めて中国全土を統一支配した王朝で、紀元前206年に滅亡しました。
三河に住み着いた童男童女は最初は秦を名乗っていたが移民であることを隠したために、その家系を失い、わずかに鵜殿氏と数氏のみが祖先のことを伝えるだけになりました。
しかし世代を重ねても元は大陸からやって来た秦人のため、三河国に住み着き、地元の人間と血縁関係を結んだ家は、徐福の一族または徐福の船でやって来た秦人扱いになったようです。
そして平安時代(784年以降)になると、この秦人の末裔が紡いだ赤引の糸は神御衣(神の着用する衣服)を織るための材料として伊勢神宮(三重県伊勢市)に納められるようになりました。
東三河宝飯郡の牧野の一族であった私の祖父と、実家が呉服商だったという祖母の結婚は「七夕(棚機)」ではなければ駄目だという大日本帝国方針に従って大正9年(1920年)7月7日でした。
棚機とは、川や清水の湧く場所で神に捧げる衣服を織り、それを棚に供え、神を迎え多産豊穣を祈ったり、厄払いを行う神事のことです。
伊勢神宮の三河の赤引の糸で織られていた神御衣につながる意味もあったようで、朝鮮神宮創建後には祖母が終戦まで麻の紐を編んで納めていました。
さらに7月7日は、陰陽道の考えである「陰陽奇偶」にも配慮したものでしたが、結婚後にすぐ、大正天皇の大御心(天皇の意思・考え)に従って京城(ソウル)に送り込まれる任務につながる、長く重要な話のため、回を改めて行ないたいと思います。
そして、秦人であることが絶えることなく伝わったとされる鵜殿氏は、熊野別当(熊野三山の統括者)の湛増の子供が紀伊国 新宮 鵜殿村に住んだことから、鵜殿姓を名乗りました。
その後、熊野別当家が所有していた荘園のある宝飯郡 蒲郡(愛知県蒲郡市)に移りました。
紀伊国の徐福と熊野三山
三重県 南牟婁郡 紀宝町 鵜殿にある鵜殿城跡が三河国宝飯郡に住み着いた鵜殿氏が築いた城跡になります。
そこから熊野川を挟んで和歌山県新宮市にある徐福像が、秦人徐福が童男童女3,000人を連れて上陸、この地に定住したというモニュメントになります。
三河国(愛知県)と紀伊国(三重県の一部と和歌山県)は全く同じ伝説でつながっていました。
熊野川に近い蓬莱山は仙人が住むという伝説の三神山の一つと同じ名前で、一説には徐福はこの山にあるという不老不死の薬を求めて来訪したとされています。
熊野速玉神社は、和歌山県 田辺市 本宮町にある熊野本宮大社と和歌山県 東牟婁郡 那智勝浦町にある熊野那智大社と併せて熊野三山と呼ばれ、世界遺産にも登録されています。
家津美御子大神(スサノオノミコト)・熊野速玉大神(イザナギノミコト)・熊野夫須美大神(イザナミノミコト)
そして、神倉神社が熊野三山に祀られた「熊野権現(熊野三所権現)が初めて地上に現れたとされる権現降臨の神社となります。
「朝鮮総督府官吏最後の証言」
平成5年(1993年)、当時の内閣官房長官 河野洋平の出した談話「河野談話」によってウソが真実となった「従軍慰安婦強制連行問題」。
この悪意に満ちたウソに対して、当時97歳の高齢の身でありながら安倍晋三総理大臣宛てに事態を憂う手紙を送られた方が西川清氏でした。
外地から引揚げた日本人の敵は、大東亜戦争敗北後それまでの言動を一変させた教育界や日弁連、マスコミでした。
彼らは護憲・反戦に名を借りた反天皇や反自衛隊活動という政治運動のために、対岸の反日勢力と手を組んで事実に反した歴史を流し続けました。
くり返し「ウソは止めて欲しい」「朝鮮半島は事情が違う、あんたたちも知っているだろう」と当時の事情を知る引揚げ日本人は抗議をしましたが、全て握り潰されてしまいました。
そのため西川清氏の無念の訴えも産経新聞社がインタビュー記事に取り上げてくれただけでした。
この西川清氏の出身地が家津美御子大神(スサノオノミコト)の仕えヤタガラス(黒い烏)でも知られる熊野本宮大社が祀られた和歌山県田辺市で、産経新聞社のインタビューにもあるように、昭和8年(1934年)に朝鮮総督府 江原道寧越郡に配属されました。
大日本帝国時代は、韓国李王家が朝鮮半島側の出雲族の末裔との認識でしたので、日本からも出雲族の人間を選んで送り、朝鮮半島の近代化事業に充てていました。
西川清氏も、この選考基準に該当しているため 江原道寧越郡に配属されたものと思われます。
西川清氏の証言は事実を述べただけのものですので、「従軍慰安婦強制連行問題」をでっちあげた韓国の団体や、それに便乗した日本側の勢力とは違い、公的な記録でも当時の所在、状況が確認出来ます。
寧越郡の郡守(郡の責任者)が朝鮮人であること。日本人と朝鮮人が一緒に働いていること。郡が内務課と勧業課の2つから組織されていたことなど、97歳の証言が間違いないものであることがわかります。
西川清氏は一般採用の方なので、ご存じなかったのかもしれませんが、江原道の金剛山は高天原を追われたスサノオノミコトが降りたと伝わる新羅の曽尸茂梨の候補地の一つでした。
普通学校とは、併合前から日本の援助で作っていた朝鮮人児童用の小学校のことです。
その授業のための教師用の教授書(教え方マニュアル)にも、朝鮮半島と出雲族との関係は扱われていました。
日本は戦争に負けるまで、朝鮮人側にも出雲族との血縁関係を教えていたのです。
戦後の日本の教育関係者は、始めから韓国の反日がウソの証言で出来ていることを知っていて政治利用し続けました。
江原道江陵が現在のGoogleマップの韓国カンヌン(江陵・강름・Gangneung)になります。
ここからも出雲族は上陸、舟を使い河川を移動、同じ江原道の春川や、京畿道の京城(ソウル)まで移動していたと考えられていました。
日本(出雲族)と朝鮮半島との深い縁を国民に知られたくない日本と韓国のマスコミや教育関係者は触れませんでしたが、平成30年(2018年)に開催された冬季平昌(ピョンチャン・평창)オリンピックの開催地も江原道の平昌郡でした。
新羅の時代には「白烏縣(白い烏)」と呼ばれていて、高麗時代になって「平昌」という地名になりました。
国の指示で私の祖父豊田靖国が入った場所も、江原道 江陵(カンヌン・강름・Gangneung)でした。
拓務省は朝鮮総督府と天皇家の間に入っていた国の機関です。
基本的には朝鮮総督府側から現場報告を受け、その情報を雲の上の方たち(天皇家・皇族)につないでいた組織になります。
朝鮮半島で初めて天照大神と素戔嗚命を合祀した江原道 春川郡 春川邑の江原神社が示すように、皇族は紅葉見物のためだけに江原道を訪ねていたわけではありませんでした。
京城(ソウル・서울)の熊野
奈良県の吉野山から熊野(和歌山県)の蓬莱山(熊野三山を含む)までは、古くから大峯奥駈道と呼ばれる修験道の修行の道でもあり、熊野詣の参拝道(熊野古道)の一つでもありました。
朝鮮総督府 京城府土木課作成の「京城府全図」にハッキリと書かれていますが、大日本帝国は天皇陛下の大御心に従い、京城(ソウル)に吉野山から「吉野町」、蓬莱山から「蓬莱町」と町名を名付け、熊野を作っていました。
高天原の天照大神と明治天皇を祀った朝鮮神宮は吉野町側に建てられ、そこから長階段を降った先に、神が御成になった場所、御成町と名付けました。
これによって、高天原を追放されたスサノオノミコトが降り立たれた新羅の曽尸茂梨が京城(ソウル)であること(または重要な関係を有していること)を示すと同時に、徐福と熊野権現、スサノオノミコトが関連づいていることを示唆していたのです。
まともな歴史学者、ジャーナリスト、弁護士、政治家が一人でもいてくれれば、私のような人間が引揚げ日本人の日韓史を残そうと苦労しなくて済んだのですが、人に恵まれないというのは恐ろしいものです。
「靖国神社参拝問題」が起きようが、「従軍慰安婦強制連行問題」がでっち上げられようが、ただの一度も、誰一人も引揚げ日本人の集まりに確認に来ることはありませんでした。(※この部分は重要ですので引揚げ日本人の集まりについても後日説明していきたいと思っています)
こうして、信仰心も先祖・先人を敬う気持ちも失った教育界やマスコミの政治運動のために、日韓両民族のルーツにつながる基礎的な情報ですら、日本人も韓国人も理解できない状態にされてしまったのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。