「温故知新」 新しい歴史の改ざんの動きに向き合う前に
「振り子の針が右から左に振れただけ」、「こう門だけでなく頭も赤い連中の言いなり」、「受信料は取っても自分たち(引揚げ日本人)の声は取らない」と、外地(満州・朝鮮)引揚げ日本人間で評されていた戦後日本のマスコミや教育界。
「宮城遥拝」から「九条遥拝」に極端に変わり、天皇が悪い、国が悪いと、自分たちにとって都合の悪い部分は伏せて責任を転嫁した司法関係者や知識人。
選挙権すらなく本来の計画とは違う本土の始めた戦争に引きずられ、終戦前後に多くの犠牲者を出した外地日本人の歴史は、素早く手のひらを返した彼らにとって邪魔であったため消されることになりました。
フランスのUbisoft(ユービーアイソフト)のビデオゲームで起きた弥助の問題にも見られる、学者やマスコミの不可解な言動や、機敏に動かない外務省や政治家の謎は、過去に起きた外地朝鮮の歴史の改ざんを知ることで理解が出来るのです。
小学校から国民学校へ
「昭和16年(1941年)11月27日附 学校長土生 米作 朝鮮総督府 京畿道 朝鮮総督府 京畿道属に転任す。」と沿革史にありますが、国立国会図書館に収蔵されている朝鮮総督府及所属官署職員録でも確認が出来ます。
朝鮮の教育は、昭和13年(1938年)に朝鮮教育令の改正によって、それまでの朝鮮人児童に対しての教育機関であった、普通学校・高等普通学校・女子高等普通学校の名称を改称し原則内鮮(日本人・朝鮮人)共学となりました。
これにより朝鮮人児童も学区が同じで空きがある場合、学校を支える組合員(地域の実業家や富裕層)の高額な寄付により教育設備の整っていた旧尋常小学校通学の選択が可能となりました。
さらに、昭和16年(1941年)からは内鮮一体(日本人と朝鮮人は一体である)方針の徹底により、小学校から「国民学校」に改称されました。
京城元町小学校の学校長から京畿道の教育行政を担当した視学官にまでなった土生 米作氏と、元町小学校の元生徒たちは昭和35年(1960年)、安保闘争で揺れる最中に広島で開かれた学校の同期会で当時の思い出話をしていました。
この写真に写っている方たちの中にも、アメリカ合衆国のカルフォルニア州で「少女像設置反対のグレンデール裁判」を闘われた目良 浩一氏(昭和8年京城生れ)と交友をもたれている人がいました。
そのため、当時の教育現場の情報なども伝わっていて目良 浩一氏は闘われていたのですが、日本のマスコミや弁護士、歴史学者はこの様なことを一切国民に伝えませんでした。
昭和18年(1943年)3月8日に、「乃木大将銅像並に二宮金次郎銅像二基朝鮮軍愛国部に献納す。」とありますが、生徒集合写真の背後の銅像が、その内の一つ二宮金次郎銅像になります。
隠され続ける戦時下の朝鮮半島
昭和15年(1940年)10月から戦時下銃後国民運動として朝鮮人の皇国臣民化(大日本帝国朝鮮系日本人)を主目的に組織された「国民総力運動」。
行政組織としての朝鮮総督府(総督は軍の上級将校)と軍主導の国民総力朝鮮連盟(総裁は軍の上級将校))の2つの組織を頂点に、末端の朝鮮半島に住む個人を個人愛国班員として町内会の軍事版である約43万の愛国班(内地の隣組)を使い、本土の始めたアメリカとの戦争を支えていました。
さらに、開戦後の昭和17年(1942年)には第8代 小磯 国昭総督の下で、道義朝鮮の確立・皇民の錬成・決戦生活の確立・必勝生産力の拡充・徴兵制度実施の準備の5大目標を掲げ、終戦まで朝鮮半島在住の日本人・朝鮮人を徹底管理・指導しました。
新しき朝鮮の写真は、必勝生産力の拡充に当たる愛国班員の朝鮮人女性による縄叺(藁蓆を2つに半折し、両端を縄で閉じて封筒状にした肥料や穀物などを入れる容器)の増産供出作業になります。
さらに軍の兵糧である米の増産の挺身活動も行われ、鉄道を使い満州方面へも送られました。
挺身活動とは、主に愛国班に割り当てられた国への奉仕活動を指します。
昭和19年(1944年)からは京城(ソウル)の小学生も戦時徴用のため、缶詰工場や軍需物資の軽作業(私の父は飛行帽のあご紐作りを担当)、愛国班の掲示物作成や掲示作業補助などが割り当てられていました。
引揚げ日本人の集まりでは、「あなた挺身は?(どこの挺身活動の割り当てだった?)」という聞き方をされて「私は~」、「自分は~」と答える形で戦時下の思い出話に花を咲かせていました。
朝鮮社会では日本とは異なり真鍮器が広く使われ、李王朝時代には、たらいは一つで運搬時の物入れから洗顔、洗濯、煮炊きまでこなせる万能器として重宝されていました。
しかし、真鍮は日本軍にとっては不足がちな銃の薬きょうなどに使用できるため、学校の銅像だけではなく愛国運動として真鍮製品の軍施設への献納を奨励しました。
その結果、朝鮮社会の使い慣れた多くの鍮器が軍需品に変わり、決戦生活の確立として朝鮮人家庭は、なじみのない日本式の瀬戸物や木製の桶を使用することになりました。
国語(日本語)教育は、皇国民化教育の徹底方針により国民総力運動の中心政策となりました。
昭和17年(1942年)になると、昭和19年(1944年)に予定していた朝鮮半島の徴兵制に備えて一層の日本語の普及を図るため、国語講習会の開催回数は大幅に増やされ、13道(日本の県に相当)全域で行われました。
そのため、国民学校教員だけを指導に充てるのではなく、生徒にあたる朝鮮人の高齢者や婦人の会話の相手をさせるために、休日には京城(ソウル)からも内地人(日本人)児童を送っていました。
その結果、併合以来普通学校で進めていた朝鮮民族の言葉である朝鮮語(書き言葉としてのハングルを含む)の学習機会の大幅な減少を招いてしまいました。
当時の実情を知る日本人の「朝鮮半島の人たちに申し訳ないことをした」というものは、上記のような戦時下での不自由な生活を強いたことや、日本人側は朝鮮語を学習しないのに対して、公用語とした日本語の学習を一方的に朝鮮人側に強いてしまったことへの後悔でした。※朝鮮語の使用そのものは禁止していません。
それが実情を知る人たちが世を去り出した1980年代から、日本では使用してはいけなかったはずの「日本人がむやみやたらと朝鮮人を殺したり、非合法に連れ去っていたという、戦後作られた朝鮮半島側の反日本の歴史認識」が国内でも使われるようになりました。
その様な事実とかけ離れた朝鮮半島引揚げ者を侮辱する、悪意に満ちた報道の中心にいたマスコミが朝日新聞社だったのです。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました