ノブレスオブリージュ・大日本帝国の皇族と公族
一連のUbisoft(ユービーアイソフト)の「弥助」問題やパリ五輪の惨状を見る限り、とても信じられないことですが、「ノブレスオブリージュ」とはフランス語で「特権階級にある者の果たすべき責任と義務」を意味する言葉になります。
明治維新後に大英帝国を近代化の手本とした際に日本にも導入されたとされ、国民に兵役を義務とする以上、高貴なる者もその務めを果たすべきであるとして、終戦まで日本の皇族男子は軍属にありました。
また韓国併合後は、日本の高貴なる一族に加えられた韓国の李王家からも帝国軍人を出していました。
靖国神社 臨時大祭 記念寫眞帖 昭和13年(1938年)版にも写っていた皇族・王公族の内、 朝香宮 孚彦王殿下と李ぐう公殿下は大正元年(1912年)生まれの同期生でした。※李ぐう公の漢字が使用できないためひらがな表記になります。
昭和11年(1936年)時、朝香宮 孚彦王殿下は陸軍歩兵学校 教導連隊附 陸軍歩兵中尉でした。
昭和11年(1936年)時、李ぐう公殿下は野戦重砲兵 第8連隊附 陸軍砲兵中尉でした。
陸軍士官学校 本科生徒隊 中隊長 豊田 勝
第44期生として卒業した後も陸軍士官学校に残っていた豊田 勝少佐。
この陸軍士官 豊田 勝(明治27年生まれ)が祖父 豊田 靖国(明治22年生まれ)の弟でした。
この大叔父 豊田 勝陸軍士官学校 本科生徒隊 中隊長が、在学中の皇族 朝香宮 孚彦王殿下と韓国 公族 李 ぐう公殿下のお世話係を務めた一人になります。
朝香宮家は久邇宮 朝彦親王の第8王子 久邇宮 鳩彦王によって明治39年(1906年)3月に創設されました。
阿坂城跡のある一帯が阿坂山、浅香山、朝香山、袖岡山と呼ばれていた場所になり、朝香宮家の宮号の由来とされています。
日本武尊の墓とされる前方後円墳、能褒野王塚古墳があり、その側の能褒野神社(三重県亀山市田村町・主祭神 日本武尊)は、明治16年(1883年)に久邇宮 朝彦親王より社号が選定され、明治28年(1895年)に社殿が竣工しました。
曽祖父 牧野勝次郎は鳥取連隊(歩兵第40連隊)の大尉として日露戦争に参戦。遼陽会戦にて負傷していました。
明治37年(1904年)9月3日に牧野 勝次郎大尉負傷と記録されています。
朝香宮家創設と同時期に、曾祖父 牧野 勝次郎は国命により、秦人が住み着き伊勢神宮に赤引糸を納めていた三河国(現在の愛知県)に縁をもつ牧野家(牛久保城跡)から、伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神(穀物と食物の神)と同じ船で来訪、豊受大神に仕えていたという豊田家を継がされました。
翌年に控えていた嘉仁親王(大正天皇)による5月の山陰(鳥取県・島根県)行啓(出雲大社参拝)、10月の韓国京城(スサノオノミコトの降り立たれた新羅の曽尸茂梨)訪問を前にしてのことでした。
大正天皇陛下の贈り物
慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京に改称され、同年9月に元号が「明治」に改められました。
そして明治元年10月13日に明治天皇が東京に入り、翌年に政府が京都より東京に移されました。
嘉仁親王(大正天皇)韓国訪問の翌年、明治41年(1908年)から工事を開始、大正3年(1914年)に新しい帝都の門として 東京駅が竣工しました。
日本が勝利した日清戦争によって清国からの完全独立を果たしたものの近代国家としての単独運営が難しかった韓国は、伊藤 博文の暗殺を受けて「日本による併合(留学中の韓国皇太子李 垠殿下の成人まで一時預かり)」が決定しました。
その際に日本が朝鮮半島を永続的に奪うつもりがないことを示すため、「漢城」から皇帝の住む都の意味をもつ「京」の文字を与え「京城」と改称しました。
漢字文化圏の中国の首都が共産主義国となっても「北京」を名乗っている様に、長い年月歴代中国王朝の属国であった韓国の都が「京」の文字をもったいうことは非常に大きな意味があったのです。
大正9年(1920年)7月7日に国に七夕(棚機)結婚させられた祖父 豊田 靖国は大正天皇陛下より李王 垠殿下への結婚祝いの品として南満州鉄道によって建設が決まっていた京城駅(初代韓国ソウル駅)建設担当名目で同年の8月頃に京城入りしました。
ここでは長くなるので触れませんが、国の期日指定の結婚は、この「七夕の短冊の願い」の他にもいくつか理由がありました。
大正9年に京城(ソウル)に入ったため、翌大正10年の南満州鉄道株式会社 社員録に雇員として豊田 靖国の名前が掲載されています。
京城駅が大正3年(1914年)に竣工した東京駅に似ているのは、旧南大門駅時代の明治40年(1907年)10月16日、この場所に自らお立になられた大正天皇陛下の「新韓国皇帝(李王 垠殿下が就任予定)のための駅(大韓帝国帝都の駅)として相応しいものを用意してあげなさい」という大御心(天皇の意思・考え)を受けてのものでした。
雄略天皇の時代より分けて祀ってはならないと、伊勢神宮内宮と外宮に合祀された天照大神と豊受大神。
朝鮮神宮創建は、豊受大神と分けて天照大神をお祀りする(朝鮮神宮祭神は明治天皇・天照大神)という問題をもっていましたが、祖父母は、当面の解決策として朝鮮神宮側で夫婦揃ってお使えする役割も与えられていました。
スサノオノミコトのお怒りにより起きたと解釈された「226事件」
大叔父豊田 勝少佐は昭和11年(1936年)に発生した226事件後に、正式に 朝香宮 孚彦王附属の皇族附武官に任命されました。
昭和11年(1936年)2月26日に発生した陸軍青年将校らによるクーデター事件。
明治天皇・大正天皇・昭和天皇と3代の天皇に仕え、親米・軍縮派であり、3代・5代と2回朝鮮総督を務めていた斎藤 實内大臣の死(斎藤實記念館)は、信頼を寄せていた昭和天皇やその周囲の戦争回避派の人たちの非常な動揺を誘ったということです。
大正期に予定していながらトラブル続きで果たせずにいた、「韓国維新(併合解除)」
東京の誰が言い出したことかは伝わっていませんが、この遅れに対してスサノオノミコトがお怒りになられ、この様な事態を招いたという解釈がされました。
そのため大叔父経由で祖父に対して、すぐに長白山(白頭山)に入りスサノオノミコトのお怒りをお鎮めするように要請が入り、咸鏡北道の城津に移動となりました。
咸鏡北道の城津郡は、現在は北朝鮮の金策市になっています。
伯母のアルバムに残る写真は、昭和11年(1936年)現地で撮られたものです。なぜ長白(白頭山)でスサノオノミコトに対して儀式を行ったのかは、非常に重要な話ですので、別途改めて説明したいと思います。
その後、大叔父は真珠湾攻撃前には朝鮮京畿道 京城府 龍山区の朝鮮軍司令部に陸軍大佐として配属されました。
昭和20年(1945年)8月15日 京城(ソウル)李ぐう公殿下葬儀
昭和20年(1945年)8月6日にアメリカ軍により広島に投下された原爆で軍務中(第二総軍の教育参謀・陸軍中佐)に被爆死された李ぐう公殿下のご遺体は空輸され、玉音放送の流れた15日に京城(ソウル)で葬儀が執り行われました。
李ぐう公殿下の御附武官の吉 成弘中佐は李ぐう公殿下死去後に責任を取りピストルで自決したため、この葬儀に出席していた中で最も親しい関係であった軍人は豊田 勝大佐でした。
見づらいですが、左側に父豊田 稔の直筆で、「勝叔父と息子さん、陸軍大佐の面影は?」と書いてあります。
この写真を父が撮影した日に、皇籍離脱後日本航空に勤められていた朝香 孚彦氏にお会いしたそうです。
父が車を運転して後席に大叔父を乗せて向かったそうで、終戦時の李 ぐう公殿下の葬儀や当時のご家族の様子、軍人時代の諸々思い出話に花を咲かせたとのことでした。
京城元町小学校同期会
終戦時、小学6年生として父豊田 稔が通っていた京城元町小学校。
昭和10年(1935年)に建て替えた鉄筋コンクリート3階建2館(本館・695.5坪・第2館・585坪)の他に別館、講堂、理科室、温室などを備えていました。
冬には漢江(ハンガン)の表面が凍り天然のスケートリンクになっていた時代、本館と第2館は石炭ボイラーによるセントラルヒーティングを完備し、ストーブ要らずになっていました。
内地(日本本土)とは違い外地(朝鮮と満州)は露天掘りで採掘された豊富な石炭がありました。
そのため大東亜戦争中は内地同様に生活物資が配給制にはなっていても寒さに苦労することはありませんでした。
また、教室内を棚状に通るパイプを利用して弁当箱を4時限目からのせて温め、昼食時には温かい弁当を食べることが出来たそうです(通称弁当温め器)。
「Seoul Namjeong Elementary School」が引継がれた旧京城元町小学校になります。
昭和46年(1971年)から平成13年(2001年)まで開催された、京城元町小学校 同窓会 全国大会。
明治36年(1903年)2月、韓国近代化事業で入った日本人の児童7名のために京城 日本警察署 龍山巡査駐在所の一部を仮校舎に開校。
昭和12年(1937年)には日本人・朝鮮人全校生徒1,895名を数えた学校の、入学年度を越えた集まりでした。
まだ韓国旅行が珍しい時代の昭和48年(1973年)、第1回 ソウル訪問旅行には、大正・昭和の京城元町小学校 同期生63名が参加しました。
当時の韓国教育関係者の案内で校舎を見学していました。
この時代、大東亜戦争を同じ場所で一緒に過ごした日本人と韓国人の間には「従軍慰安婦」という言葉は存在していませんでした。
朝日新聞社が作った「従軍慰安婦」という言葉は、朝鮮から引揚げた日本人の集まりに一度も姿を見せなかった弁護士や学者たちによって、あたかも大東亜戦争中から使われていたかのように吹聴されました。
祖父 豊田 靖国の話も、大叔父 豊田 勝の話も京城元町小学校の同期会や同じ京城(ソウル)に住んでいた引揚げ者の集まりで思い出話として何度も語られていたものです。
しかし、徹底的に朝鮮引揚げ者の存在を無視し大陸側の反日勢力と連携した一部の日弁連所属弁護士やマスコミ、学者たちによって抗議の声ごと消されてしまい、外地の正しい歴史を知らない、習うことの出来ない多くの日本国民に届くことはありませんでした。
自虐史観教育のからくり
朝鮮引揚げ日本人の集まりでは、特定の思想に染まり大陸側の反日勢力と同調する日本の歴史学者に対する不満が語られることもありました。
その中心とも言うべき「日本の権威ある大学」を、皮肉を込めて「こう門だけでなくあたまも赤い連中」と例えていました。
この資料は平成29年(2017年)都内で開かれた「グレンデール裁判報告会」で配布されたものになります。
グレンデール裁判を闘われた昭和8年(1933年)京城生れの故 目良 浩一氏。
京城三坂小学校と学校は違うものの、父の友人の方たちとも親しかった目良 浩一氏の闘いは、「アメリカに正義はあるのか・グレンデール「慰安婦像」撤去裁判からの報告」という形で本(電子書籍)になっています。
国際情勢が激しく動く中、Ubisoft(ユービーアイソフト)の「弥助」問題以外にも見えだした日本を狙った歴史の改ざん問題。
それと対峙し「従軍慰安婦の捏造」の二の舞を演じないためにも、SNSが発達する以前に大胆に改ざんされた「日韓の歴史」がどの様なものなのか、残された資料や証言を用いて「戦後歴史教育のからくり」を説明したいと思います。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。