オランダの歴史(3)グロティウスとエラスムス
こんにちは!自由主義研究所の藤丸です😊
今回は「オランダの歴史」の3回目(全4回予定)です。
前回のはこちらを読んでくださいね ↓
1,オランダ共和国の誕生とグロティウス
さて、独立国オランダを誕生させた「低地諸州の反乱」は、
近代初期ヨーロッパ各国であった「王権と議会との主導権争い」のひとつともいえます。
多くの国で王権側が勝利し絶対王政へ発展しましたが、
低地諸州北部では議会主権国家となりました。
王権の束縛から解放され、自由な経済活動で大反映したオランダの17世紀は「黄金時代」と呼ばれます✨
当時ヨーロッパでは君主政が当然でした。
オランダの法学者でのちに「国際法の父」と言われるグロティウスは、
「バタウィア共和国の古代について」で、共和政こそホラントの最古の国家形態だと主張し、オランダ共和国を正当化しました。
オランダの全国議会は、7州の代表で構成させていました。
王のいない共和国の事実上のリーダーは、
「ホラント州法律顧問」と「州総督」でした。
1648年オランダ・スペイン間で「ミュンスター条約」が結ばれ、
八十年戦争が終結します。
「ウェストファリア条約」で三十年戦争が終結し、
ドイツ国内の宗教選択権の拡大、フランスやスウェーデンの領地拡大と並んで、スイスとオランダの独立が列強により正式に承認されました。
2,繁栄するオランダの経済・文化
低地反乱諸州が長期間、フェリペ2世に抵抗を続けられたのは、
戦費を賄える安定した経済力💰があったことが大きな要因でした。
1609年には「アムステルダム振替銀行」が設立されます。
隣国の英仏がともに国内問題で忙殺されていたこともあり、
17世紀前半、アムステルダムはヨーロッパ商業の中心地でした✨
印刷出版業も盛んで、17世紀の全ヨーロッパ出版物のうち過半数がオランダで作られたそうです😲
オランダには印刷技術の伝統と「出版の自由」があったのです。
文化活動も盛んでした。
17世紀のオランダ絵画は西洋美術史の中で、イタリア・ルネサンス、フランス印象派の時代と並ぶ、創造的絵画芸術の時代でした。
3,エラスムス
ここで、少しだけ時代を遡りますが、エラスムスという人物について紹介します。
エラスムス(1469~1536)は、オランダ(ネーデルラント)生まれの代表的な人文学者です。
「エラスムスが産んだ卵をルターがかえした」と言われるほど、
ルターの宗教改革の先駆けとなりますが、
エラスムス自身はルターの宗教改革にも批判的で、
融和・協調による改革を重視し、新旧両派から距離を置きました。
また、ルターと違い、エラスムスはあくまで人間の自由意志が存在することを主張しました。
「人間の自由意志が存在せず,何も決定することができないなら,
聖書の教えにも何の意味があるだろうか」
とエラスムスは言います。
エラスムスの穏健で理性的な考え方は、
■穏健派のグロティウス(国際法の父)、
■ファン・リンボルヒュ(オランダに亡命中のジョン・ロックと親交)
らに引き継がれ、啓蒙思想へ発展していきます。
エラスムスは、
「すべての事柄を不必要に明確化するのを控える」
「決め事はなるべく少なくして、ほかは各自の自由な判断に委ねて争いを減らせ」
と訴えていました。
この考え方が影響し、オランダの指導者層は、
中世以来、迫害されていたユダヤ人に対しても、なるべくユダヤ人に関する法律を作らないようにしました。
4,オランダの宗教の自由、寛容の精神
当時の周辺諸国と比べれば、オランダはかなり宗教の自由がありました。
商取引のため周辺諸国の宗教異端者とも交流したことが「寛容」の精神を育んだのです。
経済発展に伴う世俗化も進展も、宗教的寛容の一因でした。
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最後まで読んでくださりありがとうございます。
今回は自由主義を考える上でも重要な人物がたくさん登場しました。
次回は「オランダの歴史」シリーズの最終回です!
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