見出し画像

イギリスの歴史(5)ピューリタン革命前夜

こんにちは!自由主義研究所の藤丸です😊

今回は「イギリスの歴史シリーズ」の5回目です。

ところで、今回の記事のサムネの人、誰かご存知ですか?
この人 ↓ 

誰?


わからない人が多いと思います。
私ももちろん知りませんでした。


答えは、ジェームズ1世です!
※覚えなくていいです😊

この王の時代から、
清教徒革命(ピューリタン革命)へのロードマップができていきます💦


1,複合国家体制解体の危機と清教徒革命前夜

前回のnoteで書きましたように、

16世紀中頃ブリテン諸島では、
イングランドによる中央集権化や宗教改革により、
複合国家体制が進んでいきました。

しかし、複合国家体制は以下のような様々な問題を抱えていました💦

■イングランドとスコットランドに2人の王
■イングランドとスコットランド、アイルランドに3つの議会、
 異なる宗教、異なる文化・言語・民族

これは揉めそうな予感ですね…


また、イングランド自体も、
宗教や国際情勢をめぐり不安定になっていきます💦


■1554年にイングランド女王メアリ1世が、
スペイン王子フェリペと結婚し、
カトリックへの復帰を宣言します。
弾圧を恐れたプロテスタントたちが大陸に亡命します。 

メアリ1世

■次に即位したエリザベス1世は、
イングランド国教会を復活します。

亡命していたプロテスタント(ピューリタン含む)が帰国し、
国教会からカトリックを一掃し、
宗教改革を徹底するように求めます。

教会裁判所が発足し、宗教的に従わない者を投獄する権限が与えられます💦

■カトリックの大国スペインとのアルマダの戦いの恐怖感もあり、
反カトリック主義が広がります。

※この辺りについて、詳しくは以下を御覧ください😆


そのころ、ヨーロッパ全体の国際情勢も不安定でした💦

■スペインのネーデルラント侵攻に端を発するヨーロッパ全体の経済不況

1618~1648年ヨーロッパ大陸でおこった、カトリックとプロテスタントの最後の宗教戦争である「三十年戦争」による国際的な緊張関係の高まり

2,ジェームズ1世とイングランド・スコットランドの同君連合


1603年エリザベス女王の死後、

スコットランド王ジェイムズ6世が、
イングランド王ジェームズ1世として即位します。
スチュアート朝です😆

これによりイングランドとスコットランドは同君連合となります。

ジェームズ1世は、ブリテンの完全な統合を目指しました。

※あまり無茶な理想を目指すのは、心配ですね…💦

ジェームズ1世の即位後の議会演説(1604年)

『余は夫であり、ブリテン島全体がすべて合法的な妻である。
余は頭であり、ブリテン島全体が身体である。
余は羊飼いであり、ブリテン島全体が子羊の群れである。
それゆえ、聖書のもとにあるキリスト教徒の国王たる余が、
一夫多妻主義者で二人の妻をもつ夫であるべきなどと無分別に考える者がいないことを余は望むのである』

うーん…💦全然わからんが、理想に燃えているのはわかる…
ジェームズ1世


ジェームズ1世は王権神授説を信奉していましたが、
戴冠式にて議会を重視する宣誓をしました。

議員たちは不安を抱えていましたが、この宣誓に安心します😊

王権神授説とは??🤔

王権は神から付与されたものであり、
王は神に対してのみ責任を負い、
また王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の 
何人によっても拘束されることがなく、
国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない

とする政治思想のこと。

ウィキペディア


実際に議会は長期に渡り開かれましたが、
ジェームズ1世は、
「国王・貴族院・庶民院」のバランスを重んじる国制を無視しがちでした💦


また、ジェームズ1世は、キリスト教世界の調整役をめざしましたが、
これらはのちに清教徒革命が起こる要因となってしまいます💦

3,ジェームズ1世と議会


ジェームズ1世が望んでいた、
「イングランド国教会とスコットランド教会(カルヴァン派長老主義)との融合」に、
議会が反対します。

これには最終的にジェームズ1世も納得し、
イングランドとスコットランドで宗教の棲み分けが決まります。



しかし、この決定は、エリザベス以来のカトリックを抑圧が継続することを意味するため、カトリック教徒が反発します💦


また、ピューリタンから教会改革の徹底を求められるも、
王は国教会体制の堅持を表明します。
ピューリタンとも対立関係になりました💦

ジェームズ1世はブリテンの完全な統合を目指すよう呼びかけますが、
議会は動きませんでした。


ジェームズ1世は側近に爵位を与え貴族院に移籍させたため、
庶民院でジェームズ1世の代弁者がいなくなったことが要因です。

この時代、イングランドは貴族院と庶民院の二院制でした。

そして、王とそれぞれの議員のみがそれぞれの議会で発言できました。
※貴族院議員は、貴族院のみで発言できた
 庶民院議員は、庶民院のみで発言できた
 王は、両院で発言できた


スコットランドは一院制でした。
スコットランド出身のジェームズ1世は、
イングランド議会の仕組みをよく理解してなかったようです…。

また、ジェームズ1世は夫婦そろって浪費家で負債も多く、
議会に助成を求めました。しかし、

「平時には王は自らの収入でやるべし」という慣例(コモン・ロー)

により、庶民院にて反対されます。

当時イングランドは国際情勢により、深刻な不況にみまわれていました。

スペインのネーデルランド攻撃による市場の閉鎖で、
イングランドの主産業である毛織物工業が輸出先を失い、
極度の不況へ突入します😭💦


ジェームズ1世は不況対策をせず、
独占権を濫発し、特定の産業や商人を保護するだけでした💦

実際に経済を動かしていたジェントリ(議会)は反発し、
議会とジェームズ1世との対立が深まっていきます…。

議会とジェームズ1世、前途が暗い予感ですが、次回に続きます…。

ここのところの発表と、先生たちの解説コメントの動画は以下になります😆


いいなと思ったら応援しよう!

自由主義研究所
よろしければサポートをお願いいたします。いただいたサポートは自由主義研究所の活動(オンライン企画、オフ会の企画、研究員の交通費など)に大切に使わさせていただきます。※現在は研究員は蔵研也先生のみです。