【ドイツ+アメリカ=?】JAの歴史
何かと悪者にされがちなJAですが、どのように成立したのでしょうか?
今回は日本の農業を知る上で避けては通れないJA(農協)の歴史についてまとめてみました。
JAのざっくりとした概要についてはこちらにまとめています。
先にまとめです。
農協以前の協同組合
世界
イギリス「ロッチデール公正先駆者組合」
産業革命が起き、資本家と労働者という関係性が強くなっていった工場地帯では、協同組合活動の創始者と呼ばれるロバート・オウエンの思想に倣いつくられたロッチデール公正先駆者組合が成功を収め、現在でも「ロッチデール原則」という名前で協同組合の運営規則の基となっています。
ロッチデール協同組合の元では質素倹約な生活を要求しましたが、組合員へ販売される食料品などが当時よく出回っていた粗悪品と比べて品質が良かったことなどから評判は上がり、世界中の協同組合の手本となっています。
ドイツ「ライファイゼンの信用協同組合」
「自助・自己責任・自己管理」の3原則を掲げているライファイゼンは、自ら慈善事業をいくつも行った結果、本当に必要なのは自助を促す事業だと考え、組織を作り信用組合を運営するというより組合員が自主的に活動に参加するスタイルを作り上げました。
日本の農協の信用事業もライファイゼンの運営方式を元に作られています。
日本
自治組織「村落共同体」
日本における農業協同組合は原始的な始まりとされる「先祖株組合や報徳社」と近代的な始まりとされる「産業組合や農会」の2つが存在するという捉え方が一般的ですが、原始的な始まりとされる先祖株組合以前にも「村落共同体」という村単位で自治を行っていく仕組みは既にありました。
江戸時代にまで遡りますが、年貢を納めることで村の共有物である入会地や灌漑用水を使う権利を与えられたり、寄り合いのような場で政治に参加することができたそうです。
幕府への年貢の納付だけでなく、村落共同体自体も共同体運営のための資金を構成員から集めており農作業の助け合いや冠婚葬祭、ときには村八分など一定の自治機能を持っていました。
また、共済機能を持った村落の仕組みとしては無尽や頼母子講があります。
ビジョンを持った「先祖株組合・報徳社」
江戸時代後期の天保期(1831年ー1845年)、農政学者の大原幽学という人が、現在の千葉県旭市長部の一帯で始めた「先祖株組合」や二宮尊徳の始めた「報徳社」が日本初の農業協同組合と言われています。こちらは「農業協同組合」とは呼ばないものの、その仕組みが農協と近いことや、上記の「村落共同体」との違いは、明確な理念や思想を持っているというところが特徴です。
戦後農協の基となる「産業組合・農会」と「農業会」への変化
そして近代的な始まりとされるのが明治時代に作られた「産業組合」や「農会」です。また、太平洋戦争時には全国から農産物を一元的に管理するために農村部の産業組合などを統合させた「農業会」が終戦後、形を変えて現在の「農協」となりました。(この頃は開国に伴い農産物輸出・生産のために生糸・製茶の販売、肥料の購買に関する組合も増えました)
「産業組合」は、ドイツ帝国を参考に作られ、信用・販売・購買・利用(施設等の共同利用)の4つの機能があります。
一方、会員の割賦金と政府からの補助金の半官半民で運営されていた「農会」は、農業技術指導を行う組織でした。1922年の農会法改正により一定以上の面積を持つ農業者は強制加入となりました。市町村農会・郡農会・府県農会・帝国農会の他段階構造となっていました。
組合員教育のための家庭向け雑誌「家の光」、無医村への医療事業の開始、のちに「日本農業新聞」となる市況通報もこの頃に始まりました。
戦後恐慌や反産運動(商人たちの産業組合への反対)も乗り越え、そうした取り組みを行った結果、日本のほぼ全農家が産業組合へ加入している状態となりました。
そして第二次戦時中の1943年、食料を一元管理・統制するために全国の農村の組合(農会・畜産組合・養蚕業組合・茶業組合など)が統合されて「農業会」が誕生します。(名前が紛らわしい)農会同様、多段階の組織構造を持っており、市町村農業会・都道府県農業会の他、全国段階では全国農業経済会と中央農業会が置かれました。戦後に誕生する農協は農業会の影響を強く受けています。
戦後農協の誕生(1945年〜1960年)
新農協の誕生
敗戦後、GHQは「農地改革(農民解放指令)」に着手しました。
農民解放指令の内容
①農業融資の公正化
②加工業者や輸送業者等の搾取からの保護
③農産物の価格安定化
④農業技術や知識の普及
⑤農業協同組合の設置
GHQは、自作農を生み出し守る制度に重きを置き、それぞれの農家の自立性が高い欧米的な農協を作ろうとしていました。(アメリカの農協は品目や事業が限定された専門農業がメイン)
対して日本は農業会の流れを汲み、地域に根ざして複数の品目を扱い総合的な事業を行う総合農協を志向しました。
また、当時は戦後の食糧難でもあったためできるだけ速やかに組織編成をする必要があり、そのこともあり元からあった農業会の地域に根ざした組織構造を転用させ、全国に14,000の農協を誕生させました。(うち9割以上が総合農協)
農業会という国家統制のために作られた組織とは違い、組合員の自主性を重んじるのが農協なので、それをしっかり説明したパンフレットの配布が行われました。
しかし実際は、戦後すぐの農協は食糧危機の非常事態に直面していたため食糧統制のための行政の下請け機関として機能していました。
ビジネスモデルの確立
経済統制の解除後、農産物価格の下落や食糧危機の時に建てた工場の経営不振などにより農協、そして農協の全国機関である連合会は経営不振に陥ります。
それを解消するために、組織的な販売、計画的な購買、財務基準の作成などを行った他、販売や購買を連合会を通して行うというビジネスモデルを作り上げました。
この結果として農協・連合会の財務状況は改善され、現在でも「整促事業方式」として「単位農協―県連合会―全国連合会」という流れで経済事業が行われています。
信用事業への依存の懸念
上記のような経営不振から小規模農協の経営破綻は当時からありましたが、1950年代には農業者の経済状況も改善していき、農協の貯蓄運動のおかげで農林中金への預金額も順調に増えていった農協のビジネスモデルは徐々に信用事業に頼る形となっていきます。
高度経済成長期(1960年代〜1980年代)
農業基本法 vs 営農団地構想
農業者の経済状況も改善されたとはいえ、高度経済成長期を迎える日本では農業者と工業者の格差が拡がっていました。
これを是正すべくできたのが1961年の「農業基本法」です。この法律は農家の自立を促し、農業をより効率的な産業にしようと推し進めるものでした。具体的には大規模化や機械を使った省力化などが挙げられます。
しかし、そのようなことをすると「農家の選別」となり農家間の格差が拡がり、ゆくゆくは農家数が減ってしまい、地域の基盤としての農協という立ち位置が崩れかねないと考えた農協は「営農団地構想」を打ち出し、集団栽培、産地形成や機械や施設の共同利用の一層の強化、作物ごとの部会の設置、指導員を作物ごとに分けるなど農協の強みを活かした施策を行いました。
大規模農家の誕生を促す政府に対して、農協は集団的生産方式が農業を効率的なものにすると主張しました。
そして営農団地構想は「生活基本構想」へと昇華し「ゆりかごから墓場まで」と言われるように、農協は農業以外の事業への進出も積極的に行っていき地域の基盤としての役割を担っていくようになります。
減反政策
1970年からはコメの生産過剰に伴い、コメの生産調整を行う減反政策が始まりました。
こちらに関しては詳しく別で記事を書こうと思います。
農協合併
この時期は町村合併に伴う農協合併も相次ぎました。
農業生産は80年代半ばまでは右肩上がりで、農協の合併は産地拡大を考えたものでもありました。
また、合併に伴い、農業者と消費者が混在するようになると、准組合員の迎え入れも積極的に行うようになりました。
准組合員の増加
准組合員とは農業者ではない加入者のことで、都市部での増加がよく見られました。
准組合員の増加に伴い、信用事業への依存度合いが増えた農協は利益が上がり経営が安定するようになります。
この農業と関係のない事業で利益が上がり、本来の農業関連事業が赤字になる、もしくはほぼ行われなくなるという矛盾した状態が「准組合員問題」として後に取り上げられるようになります。
農協改革が言われるようになる(1980年代〜現在)
農協批判
新自由主義の到来に伴い、コメ自由化圧力などがかかる中で農協は政府やマスコミから批判を受けるようになります。
日本の米は他国と比べて高価格で、その理由は日本の農業が非効率であり、それを保護しているのが農協だというのがその主な内容です。
当時の日本は工業製品の輸出大国として、その地位を確保するために他国との貿易摩擦の解消のための標的となったのがコメなどの農産物でした。
1986年から始まるガット・ウルグアイラウンドでは、輸入拒否等の措置をやめて関税を設ける形に変える「例外なき関税化」と呼ばれる動きが始まり、結果的にコメの輸入を拒んだ日本は輸入米の関税化を認めない代わりに1995年から国内の米消費量のうち4%にあたる量のミニマム・アクセス米を輸入することとなりました。
日本経済の成長鈍化
上記の輸入自由化の問題の他にも、日本経済自体の成長が鈍化も農協に大きな影響を与えました。
まず食料消費が停滞したことで農作物の生産過剰、価格低迷が起きました。
そして経済成長が鈍化すると政府の農業に対する予算は減らされるようになり、日本の農業界全体が負のスパイラルに陥るようになってしまいました。
国内農業の縮小と新事業開始
上記の通り1980年代後半になると日本の農業生産が縮小し始めます。
また、コメ自由化の圧力が強まる中で「食糧安全保障」や「自給率の向上」が注目されるようになると、農協は国民や地域住民からの注目と理解を集めるために1990年代より、ファーマーズマーケット事業、農福連携事業、子ども食堂などを始めます。
農協法改正
いわゆる農協改革と言われるもので、農協の分社化を促し信用事業や准組合員に頼った財務体制を経済事業、農業者がメインとなるように変えていくために様々なことをしています。
法改正について主な内容は次のとおりです。
農協の運営規則として「農業所得の増大に最大限の配慮をしなければならない」と明記した。
理事の過半数を「認定農業者や販売・経営のプロ」にする必要があるとした。
組織の分割や株式会社等への変更が可能となった。(信用事業・厚生事業等)
中央会の法律上の規定を削除し、都道府県中央会は連合会に、全国中央会は一般社団法人に移行するとした。
一定規模以上の農協及び連合会は、会計監査人(公認会計士または監査法人)による監査を受けることが義務づけられた。
※准組合員の事業利用に制限については先送り
新農業基本法
上述したように1961年施行の農業基本法は農工間格差を縮小するために農農地の大規模化や大型機械の導入による効率化を目指しましたものでしたが、当時とは日本の経済・食・農業などの状況は大きく変わっているので、現在の日本の農業の目指すべき姿を再定義するために1999年に施行されたのが新農業基本法です。
次の4つのポイントが挙げられています。
食料の安定供給の確保
多面的機能の十分な発揮
農業の持続的な発展
農村の振興
農業者の高齢化や食料自給力の低下、地方の過疎化などの問題が浮き彫りになっている中で、農業・農村を単なる「生産手段・生産地」として見るのではなく、自然や景観、文化といったソフトな部分も主張し、
農業と工業を比較するのではなく、日本全体という視点で捉えて国民の生活や経済発展を支える基礎として発展していくことを掲げています。
ですので、課題としている指標も農業者視点の農工間格差ではなく、食料自給力という国民全体が当事者になる指標を選択しています。
最後に
今回は、農協の歴史についてまとめてみました。
日本の農協は戦前のドイツ的な産業組合と戦後のアメリカ的な職能組合が組み合わさったハイブリッドな組織として誕生し、その独自性を維持しながら今日まで続いてきました。
日本の農業自体が課題の多い産業という中で、農協にも変わらなければいけないところはあると思います。
しかし、協同組合の「共助」という考え方は格差の拡大や年金制度の崩壊が起こる中で改めて注目すべきことだと思います。
この辺りは別の機会で深掘りしてみたいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。