20年間無国籍だった僕
プロローグ
僕は日本で生まれた。物心ついたときから父と母がいてずっと一緒に暮らしてきた。
僕と母は日本で暮らす許可がないと知ったのはいつの時だっただろう。
僕には「国籍」がないと聞いたのはいつの時だっただろう。
僕は、確かにこの地球上に存在しているのだが、
20年もの間、僕の存在はなかったんだと聞いても実は実感が沸かない。
わかっていることは、父も母も生きていくために、僕のために一生懸命だったということ。
そして、今、僕は怯えずに外出ができて、堂々と仕事ができるようになったということ。
ある団体からの相談
2019年11月、ある団体から1本のメールが事務所に届きました。無国籍のお子さんのいるある家族のために弁護士さんを紹介して欲しいということでした。
日本人の父の国枝さん(仮名)とフィリピン人の母のアビゲイルさん(仮名)、その両親から生まれた息子のマイケルさん(仮名)は家族3人で関西方面に暮らしていました。国枝さんはマイケルさんを自分の子どもとして認知をして日本国籍を取得させてあげたいが、それがかなわないままマイケルさんは19歳になっていました。
アビゲイルさんには法律上、フィリピン人の夫がいるため、息子のマイケルさんは法律上、フィリピン人の夫の子どもとみなされてしまうので、マイケルさんの実の父の国枝さんはマイケルさんを認知できずにいました。国枝さんはアビゲイルさんと結婚をしたかったのですが、フィリピンは離婚制度がないため、結婚することもできずにいました。アビゲイルさんとマイケルさんには在留資格はなく、誰にも相談もできないまま時が過ぎ去ってしまったとのことでした。
マイケルさんの両親に事情を伺ったところ、マイケルさんの出生は、日本の役所にも、フィリピン大使館にも出されておらず、事実上の無国籍状態でした。在留資格も国籍もないため学校にも行けないと思い、マイケルさんは一度も学校に行ったことがなく、国枝さんが自宅で勉強を教えていたそうです。
弁護士への相談の準備
弁護士さんに相談をして裁判所に強制認知の申立てをしてマイケルさんと国枝さんの父子関係を証明してもらうために、マイケルさんの身分証明となる書類が必要であるため、フィリピン大使館でマイケルさんの出生登録をしてもらうこととなりました。しかし、マイケルさんの母のアビゲイルさんのパスポートの有効期限は切れており、再発行のためにはフィリピン本国から様々な書類を取り寄せてもらう必要がありました。しかし、アビゲイルさんとマイケルさんには在留資格もなく仕事を見つけるのが難しく、父の農業の仕事をお手伝いしながら一家は生活をしており、生活はかなり困窮していました。書類を取り寄せるための費用やDNA鑑定にも費用がかかります。さらに、2020年3月からの新型コロナの感染拡大の影響を受け一家の生活はさらに厳しくなりました。
ようやくDNA鑑定を終え、アビゲイルさんのパスポートを作成しました。当初の予定ではフィリピンの領事館で「認知の宣誓供述書」に国枝さんに署名をしてもらい、国枝さんを父としてマイケルさんの出生登録をする予定でしたが、アビゲイルさんには法律上の夫がいるため、マイケルさんの父を国枝さんとして登録することはできないと言われました。それをしたいのであれば、日本で裁判をして父子関係を明らかにしてきてからにして欲しいとのことでした。
そのため、弁護士さんに相談をし、強制認知の申立てをしてもらい国枝さんとマイケルさんの父子関係を証明してもらうことになりました。そのために、アビゲイルさんに法律上の夫との関係を詳しく聞き取りをする必要がありました。
母の話
アビゲイルさんはフィリピンの大学を卒業後、銀行に就職し、その後、別の会社へ転職をして経理の仕事をしていた時に結婚をして、3人の子どもをもうけました。さまざまなパートタイムビジネスにも挑戦し、不動産の仕事ではかなり良い業績をあげていたそうです。
しかし一方、仕事に忙しいアビゲイルさんと夫の関係はうまくいかなくなっていました。夫は他の女性とつきあうようになり、アビゲイルさんのもとを去りました。その時、半ば強制的に夫は3人の子どもたちも一緒に連れて家を出て、海外へ移住してしまいました。アビゲイルさんは子どもたちと引き離されたことがとてもつらく寂しかったのですが、高圧的な夫にさからい混乱を招くよりも自分が我慢して事を収めることを選びました。
フィリピンには離婚制度がなく、婚姻無効の手続きにはお金と時間がかかり、また二人ともフィリピン国外にいるためフィリピンの裁判所でやる必要のある婚姻無効の手続きは現実問題として難しかったのです。
アビゲイルさんは生きていくために不動産の仕事を続けました。あるとき、知人を通じて日本で物件を売らないかとの提案を受け、アビゲイルさんは来日しました。1991年のことでした。時はバブルの真っただ中、多くのフィリピン人女性たちがエンターテイナーとして日本で仕事をしていました。彼女たちは日本で稼いだお金をフィリピンにいる家族への仕送りや土地や建物の購入のために投資していました。
アビゲイルさんの顧客はこうしたフィリピン人の女性たちでした。2度目の来日の際、フィリピンの土地と建物を検討している女性に出会い打ち合わせをました。その後、アビゲイルさんは買い物をするためお店に入り、支払いをしようとして鞄を開けたところ、パスポートやお財布、クレジットカードの入っているケースが無くなっていることに気づきました。アビゲイルさんはパニックになり、どうしていいのかわからず、警察にも大使館にも相談することを思いつくこともできませんでした。
アビゲイルさんはそのままオーバーステイとなってしまいます。貴重品を失って1か月後、アビゲイルさんの母から国際電話があり、アビゲイルさんのクレジットカードの支払い明細が届いたとの知らせでした。アビゲイルさんは至急クレジットカードの停止の手続きをし、クレジットカードを盗まれたことが判りさらにショックを受けました。
お金を失いオーバーステイとなったアビゲイルさんは、日本の友人の子どもたちを世話する仕事などをして毎日をやり過ごしていました。そんな時、友人から紹介を受けたのがマイケルさんの父の国枝さんでした。心優しい国枝さんにアビゲイルさんはすぐに魅かれ二人は一緒に暮らし始め、マイケルさんが誕生しました。国枝さんもアビゲイルさんも在留資格がないと出生の登録はできないと思い込んでいたため、マイケルさんの出生登録はされないまま時が過ぎ去りました。
認知の申立から在留許可
弁護士に相談し、裁判所に強制認知の申立てをして、国枝さんとマイケルさんの父子関係を確定し、その後、入国管理局に出頭してアビゲイルさんとマイケルさんの在留特別許可を申請することになりました。
2021年12月、ようやくマイケルさんは国枝さんの子どもだと認めた審判が確定しました。その後、国枝さんの戸籍に認知の記載がされ、アビゲイルさんとマイケルさんは入国管理局へ出頭しました。
アビゲイルさんに在留特別許可が認められるかどうか、が不安でした。マイケルさんは日本人の国枝さんの子どもで認知もされたので、在留特別許可がでる可能性は高かったのです。しかし、アビゲイルさんは、すでに成人をしている日本人の子を養育している母として「定住者」として日本に滞在して良いという許可がでるとは思えませんでした。アビゲイルさんにもそのことは伝え、もし、許可が出なければ、フィリピンへ一人で帰る決心はできているとのことでした。
2023年1月、アビゲイルさんからのメッセージが届きました。
「私とマイケルに滞在許可がでました。信じられないです。本当に嬉しくて嬉しくてたまりません。」
長い長い道のりを経て、ようやく一家は安心して日本で暮らしていけるようになりました。今からでも遅くありません。マイケルさんが十分に享受できなかった学びをはじめ、さまざまなことに挑戦していって欲しいと願います。
JFCネットワークについて
JFCネットワークについて知りたい方はこちらから
団体ホームページ
Facebook(日々の活動を配信しています)
Twitter(各メディアのお知らせや最新の情報を配信しています)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?