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「鬼滅の刃」の人気に希望を見出す

「その境遇はいつだって、一つ違えば、いつか自分自身がそうなっていたかもしれない状況。俺は運よく人間でいられたけど、二人とも鬼になっていた未来もあったかもしれない。」

先日まで放送していた、「鬼滅の刃~遊郭編~」の第10話を見ていて、主人公の炭治郎が敵である鬼の首を斬ろうとしているときのこの言葉を聞いてハッとしました。

下記のツイッターの投稿にもある、左側にいる主人公の炭治郎と妹の禰豆子(ねずこ)と、右側にいる鬼の兄妹。左側は「善」で右側が「悪」ですが、一つ違えば、紙一重であることが良く表現されていると思います。

「鬼滅の刃」は、家族を鬼に殺された少年が、襲われたときに鬼に変貌してしまった妹を人間に戻すために鬼に立ち向かっていく物語です。

冒頭の発言は、敵である鬼の兄妹の境遇を思った主人公・炭治郎が、「憎むべき敵は、自分も一歩違えば同じ境遇に陥っていたかもしれないのではないか」と気づいた瞬間に発せられた言葉です。

そう、誰もが自分と全く異なる人を見ると「私は違う」と思いますが、実は紙一重。誰もが、生まれた国や地域が違えば、親が違えば、環境が違えば、自分もそうなっていたかもしれない。

鬼の兄妹は人間だったころ、最下層の貧民街で生まれ、幼い頃から食べるものもなく、誰も手を差し伸べてくれなかった境遇を振り返ります。自分の妹がもし違う環境に生まれていたら人生違ったのではないか。妹がもし良家に生まれていたなら上品な女性になっていたのではないかと、最後に鬼の兄が悔やむシーンも印象的でした。

数日前、国境なき医師団の助産師として地中海の船に乗り込み、アフリカ大陸からヨーロッパを目指して波が高くて危険な海を装備無しのボートで救命胴衣を装着せずに渡ろうとする移民希望者の救助活動を行っている小島毬奈さんのお話を聞く機会がありました。

命の危険を冒してまで、リビアなどから脱出を図る難民、移民の人々の現状をリアルにお話して下さったのですが、彼女がふと、船のデッキから海を見ていると「私も生まれた国が違ったら、この人たちのようになっていたかもしれない、と思うことがある」とおっしゃったのです。

自分はいま助ける側にいるけど、それはたまたま運が良かっただけ。

個人主義が広がり、「自己責任」という言葉が聞かれるようになってから、その人がいま置かれている状況は、その人の努力の結果だという風潮が広がりました。

でも、そうじゃない。そのことに多くの人が気づいてきている。だからこそ、「鬼滅の刃」のようなアニメがいま共感を集めるのではないでしょうか。

「鬼滅の刃」では、鬼は単なる「悪」ではなく、鬼になってしまった悲しい事情があること、そして鬼を退治する鬼殺隊のメンバーもまた悲しい過去を背負っている人が多いことが描かれています。

鬼殺隊のメンバーは、それぞれ異なる能力を持ち、それぞれの個性に合った技でないと本来の能力が発揮できない様子が描かれています。みんなが違うから、協力し合える。弱くて戦いの前線には行けないキャラクターが、引け目を感じつつもそれでも自分の領域で人の役に立つことができることがポジティブに表現されています。

そんなアニメが人気だということが、多様性への希望を見出せる気がしています。

何を隠そう、私も多くの気づきをくれる「鬼滅の刃」のファンになってしまっています。

※写真は息子とピクニックに行った葛西臨海公園の大観覧車。たくさんの人が繋がってうまく回っているけど、それぞれ違う、そんな感じを受けました。後ろに見える美しい夕焼けの富士山とのコントラストに思わずパチリ。


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