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「回復した」とはどういうこと?

前回、ホルモン治療の副作用で適応障害と診断された私が回復してきた(頭の中の霧が晴れた)ことを記事に書きました。

いまは睡眠導入剤を飲まなくても眠れるし、以前のように「考える」ことがまったくできない、ということは無いので、回復しているのだと自分でも思います。

でも、いつ逆戻りするか分からない不安と、「回復した」というのはどういうこと?と思うときがあり、この病の難しさを感じます。

昨日、料理中に手に火傷をしてしまい、すぐに冷やしたのですが、火傷した個所は明らかに赤紫色に変色して痛みがあり、皮膚も一部めくれてしまっています。夫に見せて、すぐに火傷と認識される傷です。

でも、内面の傷は誰にも見えず、認識されません。だからこそ、自分は具合が悪いと認識しても他人には理解されにくいのです。

適応障害で体調が悪かった私はずっと苦しくて頭に霧がかかってうまく「考える」ことができない状況に置かれていました。欲(特に物欲や承認欲)があまりなく、どんよりした日々を過ごしていました。体調のレベルが最悪のときは、食事する以外のときは横になっているだけで一日が終わってしまったこともありました。そんな体調が悪い日でも、食欲は普通にあって、大好きなチョコレートなどは食べたいときに食べることができていました。

あるとき、職場に出社していたときに、間食用にチョコレートを自分のデスクの上に置いていました。私の体調が悪いと知っていた同僚が、私のデスクのところに用があってきました。そのときにチョコレートが置かれているのを発見し、こう言いました。「あ、○○さんがチョコレートを食べている」

その後、彼女はハッとして口をつぐみました。私は、いつも彼女が私がチョコレートを食べているのを見るたびに言っていたことを思い出しました。「○○さんがチョコレートを食べていると、元気なんだなと思えて安心する」と彼女はことあるごとに(私が体調不良になる前に)言っていたのでした。

そして、私の体調が悪いということを知っている彼女が、私の机の上にチョコレートが置いてある(=食べようとしている)のを見て、「具合が悪いはずの○○さんは、チョコレートを食べているのはおかしい。具合が悪いなら、チョコレートなんて食べられないはずだ。チョコレートを食べようとしているということは、本当は具合が悪いなんてウソなんではないか」ということを思っているということが分かりました。

適応障害やうつ症状のある人は何も楽しむことができないはずだ。何も楽しめなくなる病気のはずなんだから、ただひたすらに暗くしているのが本来あるべき姿だ。好きなことも楽しめないはずなのだから、好きなことをするはずがない----

うつ病、うつ症状の人は楽しんではいけない、というプレッシャーがあることは聞いてはいたけど、実際にその視線を体験すると、何も悪いことをしていないのに、「チョコレートを人前で食べることは後ろめたいこと」という感情が私の中に湧き上がってきました。具合が悪いのだから、誰が見ても具合が悪そうに、辛そうにしていなくてはいけない、と。

そんな私が休薬してから回復しているのかどうか、自分でも分からないと思うときがあります。休薬してから4か月経過したころ、徐々に回復してきたような気はしていたけど、何をもって回復というのだろう?と思っていました。睡眠薬がなくても眠れるようになった。これまでうまく思考することができず、仕事もうまく進めることができずに自信喪失していたけど、だんだん思考がクリアになってきて、仕事でも自分の考えや判断に自信が持てるようになってきた。だから、回復してきている、と自分で感覚的に思っていました。でも見た目は、以前の具合が悪かったときの私とそれほど変わりません。(顔つきが変わった、声質が変わったといわれることはありますが、誰が見ても、というレベルではない気がします)

火傷を負った私の手は、見るからに変色していて、痛みを伴っていることが分かります。そして、そのうち、回復してくると火傷を負った個所の古い皮膚がはがれ、手の変色も元に戻るでしょう。それは誰から見ても、「回復」と分かるでしょう。

でも、うつ病や適応障害、うつ状態、メンタル不調は、あらゆるレベルのものがあり、見た目では分かりにくいですし、本人ですら、ハッキリと明確にいまどういう状態なのか、どの程度悪いのかを伝えることは難しい。そして、回復している気がしても、本当に回復しているのかどうか、どの程度の回復なのかが本人にも分からないのです。

東京五輪の開会式で、聖火台に点火した大坂なおみ選手。うつ状態、「メンタル不調」を告白し、アスリートでも人権を尊重されるべきと訴えた彼女の勇気に励まされますが、「身勝手」という彼女に対する批判を見ると、メンタルヘルスに対する理解がまだまだ世界で足りていないことを思い知るのです。

それでも、今回のオリンピックで出場していたアメリカの体操選手、シモーン・バイルスさんが「自分の心と体を守るため」に途中棄権したことは、これまで限界まで自分を追い込むことが正しいとされてきたアスリートの世界が変わりつつあることを感じさせるもので、世界が変わることを予見させます。

どんなプレッシャーにも負けてはいけない、それがアスリートのあるべき姿だ、というのは、人が勝手に作りあげたバイアスです。それを覆すことがどれだけ勇気のいることか。自分を守る行動を取ることが、「逃げ」ではない勇気ある行動だということを称賛したい。

私たちは「こうあるべき」という「思い込み」に縛られすぎています。うつ状態、うつ病、適応障害、メンタル不調の人だって、日によって体調は変化しますし、細かな症状は異なります。そして、何よりも、うつ状態であったとしても、生活する上で楽しむことはあるし、自分を守るために避けることは避けるし、「うつ状態だと言っていたけど、笑っていたし、そうは見えなかった」なんて他人がとやかく言うことではないのでは、と思うこともあります。

今日で閉会となった東京オリンピック。コロナ禍で色々な困難がありましたが、行方不明になって難民申請を希望したウガンダの選手の置かれた状況、ポーランドに亡命を求めたベラルーシの選手、自分の心と体を守るために途中棄権するという選択をしたシモーン・バイルス選手などの姿から、日本が「多様性」という観点から少しでも前進する社会であって欲しいと閉会式をテレビで見ながら思ったのでした。

※画像は東京の夜景。この光の数だけ、多様な人が色々な想いを抱えながら生きている・・・夜景を見るといつもそう思います。

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