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エリンジウムの花ことば 第3話
介護職員初任者研修に集まったのは、全部で18人。席は適当に埋まって行ったが、定員は20だったようで空席がふたつあった。会社や学校の会議室に置いてあるような長テーブルが並ぶ教室で、思わず二宮さんと一緒のテーブルにおさまった。ドキドキが止まらない。どうしよう。僕、今、挙動不審なんじゃないだろうか。
最初の座学の講義をする40代半ばくらいの女性の先生が入室してきて、名簿があるので番号順に座り直すよう言われた。僕は出席番号6番で最初の列の一番後ろの座席。二宮さんは8番で僕の隣りの列の前からふたつめの席になってしまった。くっそ~。しかも両隣りの2番と14番が男ってどういうことだよ。変わってほしい。名前の五十音順でもないので、なんとなくだがきっと申し込んだ順番なのだろう、という気がした。
まずは簡単な自己紹介から始まった。普通に1番の人からでほっとする。たまに最後の人からだったり、不意打ちに今日の日付の番号で当てられたりすると、心底ドギマギしてしまう。18人のうちの6番めというのは、早すぎず、でも前半に終わるので安心した。正直なところ、1~5番の人の話はあまり覚えていなくて申し訳ないけれど、落ち着いて順番を迎えることができた。
「久保田 葵と言います。M市のひなた苑という施設のデイサービスで働いてます。癒しは猫の動画を観ることです。デイでやるレクで、何かいいアイデア持っている方、よかったらいろいろ教えてください」
ああ、緊張したけど声が上ずったりしなくてよかった。19歳で初めて利用者さんたちの前で話した時なんて、ガチガチに緊張しまくってた。おおぜいの人たちの前で話すことは、ある意味特殊な能力だ、と思う。
二宮さんの番がきた。
「二宮 瞳子と申します。接客業をしていたんですが、諸々あって今は無職です。趣味で水引のアクセサリーをつくっています。自宅で細々とですが、教えることもしているので、ご興味ある方はぜひお声がけください」
接客業……なんだろう。社会経験の乏しい僕には、デパートの店員さんとかアパレルぐらいしか思いつかない。でも、この研修で一緒に過ごす間に、どんなお仕事してたんですか、とか、水引? ってどんなものですか、とか聞いてもいいかも知れない。仕事をしていてもなかなかこの人に会えないけれど、この研修の間に距離を縮めることは可能かも知れない。そう考えると、憂うつだった研修もとたんに脳内がバラ色に感じてくる。
初日の講義は自己紹介のあと、A4サイズの分厚いテキストが3冊も配られて、じゃんじゃん端折りながらテキストを読み進めていった。講義が終わって皆が帰り支度を始めるやいなや、僕はドキドキが止まらない胸を抑えながら、勇気を振り絞って二宮さんを呼びとめた。
「あのぅ、二宮さん、駅まで一緒に帰ってもいいですか?」
一瞬、ぽかんとした顔をされたが、一転申し訳なさそうな笑顔になって言われた。
「ごめんなさい、今日はちょっと、このあと急な用事が入ってしまって。息子が今、車で近くまで迎えに来てるんです。また明後日ね。お疲れさまでした」
一気に疲れが出た。
僕は、年上の女性にばかりすごく憧れてしまう。電車の中や、街中やショッピングモールなどにいても、目が行くのは絶対に10歳以上年上と思われる女性だ。いつ頃からなのかわからないけれど、気がつくといつもそうだった。あまり疑問に思ったことはないが、僕は自分に自信がないから、そんな僕を否定したりダメ出しなどせずに、まるごと受け入れてくれる包容力のありそうな女性に惹かれるってことなんだろうな。
二宮さんが言ったところの「また明後日ね」は、やはり明後日の講義でまた会えるね、というだけの意味でしかないんだろうか……。明後日なら一緒に帰れるよ、という意味だったらどんなに嬉しいか。いや、そもそも結婚している大人の女性で、お子さんだって。車で迎えに来るなんて、下手すると、僕と同じ年ぐらいの子どもなのかも。こんな子どものような僕が、下心を持ってアプローチしているって、普通は思わないよな? でも、もしかしたら警戒されていて、『息子が迎えに来ている』というのはていのいい嘘かも知れない。
そんなことをついぐるぐると考えてしまい、次の日は悶々と仕事をし、2日後また二宮さんと研修で顔を合わせる日がやってきた。もし研修後に駅まで一緒に帰れたら、どこかでお茶とか誘ってはだめかな。お父さんが通っているデイの職員だと、立場的にはよろしくないのかなぁ。いろいろと脳内で思いを巡らせながら、研修会場の教室に入ると、二宮さんは既に来て、自分の席で文庫本を開いて熱心に読んでいた。
思い切って、挨拶のついでに「終わったあと、お茶でもいかがですか?」と誘ってしまおうか。職場で誰かに自慢げに喋ったりしなければ大丈夫だろう、と思いながら二宮さんの席に歩み寄ろうとすると、隣りの席の出席番号14番のもっさりした男が、あろうことか彼女に話しかけたのだ!
「本、なに読んでるんですか?」
うっそ! そういうやり口があったか! しまった~。この瞬間ほど、本を読まない自分を呪ったことはない。僕は思いっきり心が折れた気分で、すごすごと自分の席についた。のろのろとテキストや筆記用具を出し、ちらと二宮さんの方を盗み見ると、もっさりした14番の男と何やら本について楽しげに話している。あのもっさりはきっと本に詳しいのかもなぁ。悔しいけど、結局僕があの野郎と同じ質問をしたところで、話が続かないよな。
朝からやさぐれた気分になってしまって、その日の講義はほとんど耳に入らなかった。
しかし!
そんな僕を神様は見捨てなかった。
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