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エリンジウムの花ことば 第4話

 その日最後の講義のあと、そわそわと帰り支度をしていると、なんと二宮さん自ら僕の席まで来て言った。

「久保田さん、一昨日おとといはせっかく声かけてもらったのにごめんなさいね。今日はご一緒できますよ」
「わ、やったぁ」

 嬉しさにうち震える気持ちで、僕は心の中でガッツポーズをした。生きててよかった、は大げさだろうか。ほかの人たちに話しかけられたりして、邪魔されないように、僕は足早に教室を出た。彼女もほどよい距離でついて来てくれる。ほどよい距離、地味に大切だ。心臓がうるさい。駅までの徒歩7分、さあどうしよう? お茶しませんか、を切り出すか? そんな大それたこと、できるのか自分?

 そして、専門学校の校舎を出たところで言われた二宮さんのことばに、僕は心臓が止まりそうになった。


「久保田さん、このあと急いでますか? もしよかったら、駅の中のどこかで、お茶でもつきあってくれません?」
 僕は、文字通り飛び上がりそうになった。

「えっ、ほんとですか! 全然、ちっとも、まったく急いでないです! 嬉しいです。喜んで」
「ふふふ、おもしろい。そんなに喜ぶ? じゃあ、行きましょうか」

 駅ビルの中にあるチェーンのカフェに入り、奥まったソファ席に陣取った。なんだか、彼女といる空間がきらきらとして見えた。この時間が、ずっと続いたらいいのに、などと考えていた。

 二宮さんはなんと以前介護の仕事を1年ぐらいしていたこと、途中から体調を崩して辞めざるを得なかったことを聞かせてくれた。気になっていた、初任者研修を受ける理由は『介護の仕事に復帰するかはまだわからないけれど、これから先何をするにしても、親の介護にあたるにも必要な知識だと思ったから』と言っていた。そして僕との共通点がひとつあった。

 それは、お菓子をつくることだ。タルトやゼリー、チーズケーキなど、今までお互いつくってきたものがよく似ていた。手づくりしたスイーツの写真をスマホでお互い見せ合い、スマホを出したついでに勇気を出して言ってみた。

「あの、連絡先を交換してはいけませんか? 余計な連絡はできる限りしないようにします。もちろん、職場にも個人的にやりとりしているなんて絶対に言いませんし。遠山さんの娘さんじゃなくて、あくまでも初任者研修の仲間としてです」

 彼女が一瞬、その澄んだ瞳にふっとためらいの色を浮かべたのを僕は見逃さなかったけれど、
「そうね、私にも久保田くんのスイーツのレシピや写真を送ってほしいし」
 と言ってもらえて、めでたく二宮さんと個人的にやりとりする手段をゲットできた。51歳だという年齢は、その時教えてくれた。僕よりうんと年上の、既に結婚している31歳と28歳の息子さんがいることも……。


 僕が専門学校に入学するも、3か月ちょっとで挫折したこと、そのあとの工場のラインの夜勤仕事も続かなかったこと、仕事を辞めたと家族に言い出せなくて、ネットカフェで時間を持て余したり、夜の公園で野宿したことなどを打ち明けると、なんと二宮さんはほんの少し、目に涙を浮かべてこう言ってくれた。

「そんな。公園で野宿だなんて……。何かあったらどうするのよ。無事でよかった」

 自分の息子さんたちと僕を重ねたりしているんだろうか。僕は二宮さんにとって、どう足掻あがいても息子のような立ち位置なのだろうな、と思うと、寂しさで足元から薄く凍っていくような感覚を覚えた。
「まあ……、今はなんとかこうして、無事です」
 頭をかきながら恐縮する。
「そんな時、誰でも気兼ねなく利用できて、癒されるような居場所が街中にあったらよかったわね」
「じゃあ、二宮さんがつくってください、そういう居場所」
「え?」
「や、二宮さんの声がとにかく素敵だし、聞いててとても心地いいんですよ。癒されるんです。これから先、そういう居場所づくり的なことで起業するとか、視野に入れて活動されたらいいんじゃないかな、って思ったんです。そしたら誰より僕が一番入り浸っちゃいそうですけどね!」
「あ~、そんなふうに考えたことなかったわ。すごいね、久保田くんと話していると、視野が広がるわ」

 それからは階段をひとつずつ上るように、僕は二宮さんとの距離を縮めていった。

 研修でおむつ交換の実習に入った日、その日は僕の方から放課後のお茶に誘った。
「身体動かしたから、ちょっと小腹が空きませんか?」
 とファーストフードに寄ることを提案したら、二宮さんは相変わらず年齢を感じさせないキラッキラの笑顔で「いいよ! 行こっか」と言ってくれた。51歳という年齢は僕にとってはただの数字でしかなく、自分よりも母親に近い年齢差ということは、まったく気にならなかった。

 むしろ、こんな年上のすてきな女性とつれだって歩けることに、誇りを感じていた。ふたりで一緒に歩いていると、街中や、駅の構内ですれ違う男性の視線をとらえることがたびたびある。たぶん僕たちの年齢差に対する好奇心と、二宮さんの、華やかな中にも上品で落ち着いた美しさに対する羨望のまなざしを、僕に嫉妬として向けてこられると、たまらなく誇らしく、いい気持ちだった。たとえ、行き先がファーストフードでも。

「今日のおむつ交換の実習、あれってどうなの? 久保田くんはデイサービスでもおむつ交換ってある?」
 フライドポテトをつまみながら、二宮さんは不満げに首をかしげた。
「デイでは少ないですけど、おむつをしている利用者さんもたまにいますよ。基本、立位、座位がとれない方ですから、もちろん特養やショートステイを利用している方のほうが多いですけど」
「じゃあ、あんな実習意味ないでしょう? だって、お人形さんは軽いし、食べてる時にごめん、排泄物はないし。あれでできた気になっちゃいけないよね」

 そうなのだ。介護職員初任者研修のおむつ交換の実習は、人形で行う。おむつはもちろん本物の紙おむつを使用するが、排泄物は当然、ない。ほんとうの人間の、ましてや身体が思うように動かせない人のおむつを交換するのは、口で言うほど簡単じゃない。小さくて華奢なおばあちゃんならまだしも、180センチ超えのガタイのいいおじいちゃんはおおぜいいる。ぼくでさえ汗だくになりながら交換しているので、やはり華奢で非力な女性にはかなりハードルが高い仕事だ。腰を痛めるリスクもある。足腰を痛めないようにするやり方を提唱するメソッドも多数あるけれど、しょせんは机上の空論だ、と思ってしまう。そんなのやっぱりきれいごとだ。もっともっと介護に携わる人口が増えて、身体的にも、精神的にも余裕をもってあたることができないうちは、現実味を持たない、と僕は思う。

 いっそのこと、国の制度として「人生のどこかで一度は介護職に就かなければいけない期間」を設けてはどうだろう? ある人は案外この仕事を気に入ってその後戦力になるかもしれない。また、ある人は金輪際こんな仕事はしたくない、と思うかもしれない。だけど、介護現場のリアルを目の当たりにし、自身の老後について考えてもらうきっかけになったとしたら、それはそれで意味のあることだ、と僕は考える。

 ふと思い出したことを僕は二宮さんに話し始めた。
「おむつ交換って、療養病棟みたいな、寝たきりの人がほとんどの病院では、ふたりひと組とかで決まった時間にお部屋を回るらしいんですけど。僕がいる施設のデイとか、隣りの同じ課のショートステイなんかだと基本ひとりでやらなきゃいけなくて。でも、身体の大きい男性とか、麻痺が強くてほとんど動けない人に、ひとりで対処しようとして利用者さんを危ない目に遭わせるぐらいだったら、臨機応変に判断して誰かに手伝ってもらっていいんですけど」

 二宮さんは黙ってうなづきながら、まっすぐに僕を見つめる。
「なんか僕、人に甘えるとか、助けてほしいって言うのがどうしても苦手で。うまく言えないんです。だから、まだ介護始めたばかりの頃に、つい身体が大きい男性で、座位をとるのも難しい利用者さんのおむつ交換をひとりでやってて、危なっかしかったんでしょうね。先輩に怒られたというか……」
「え、なんて言われたの?」
 二宮さんが身を乗り出すようにして聞いてくる。


「『なんでもひとりで抱え込むなよ。周りを頼れ』って。その時は、『みんな忙しそうにしてるし、そんなん言えないよ!』って思ったんですけど」
「うんうん」
「じゃあ自分はどうかな、って。最近はどんどん新しい人が入ってきて、僕が人に教えるなんて、って思いながらやってますけど、僕自身も忙しそうにしてたら、新人さんが助けてほしい時に言い出せないかもな、って思って」
「すごい。偉いよ。その先輩って人もカッコいいよね」
「基本ショートステイの人なんですけどね、その日はたまたま先輩がデイに駆り出されてて」
「ああ、そういうこともあるんだ」
「おもしろいんですよ、その先輩。一万円札の人と同じ苗字なんで、施設では陰で職員のみんなが『諭吉』って呼んでるんです」
「えぇ? 本人は知らないの?」
「や、でもたまに理事長がうっかり『諭吉、今日は夜勤か』なんて声かけちゃってて『は? なんですか、夜勤手当、もっと諭吉増やしてくださいよ』とか言ってるのを聞いたんで、バレてますね」
「ふふっ、おもしろい! でも、あだ名がつけられる人って慕われてる証拠じゃない? 中学や高校の時、変なあだ名つけられてる先生とか、いたでしょ。その先輩っていくつぐらいの人?」
「二宮さんと同世代、と言っても少し上か。53って言ってました」
「ふぅん。そのぐらいの人って、管理職で現場とか見てくれないイメージだけど、いい先輩なんだね」

 そう言えば『諭吉』こと福沢さんは、当然国家資格である介護福祉士を持っているにも関わらず、53歳でリーダーや相談員業務は一切やっていない。僕のいるひなた苑は、年齢はあまり関係なく、20代の若い人でもリーダーになっている。福沢さんが資格もあり年齢、経験もいっているのにリーダーでもなんでもなく、一介の介護士に留まっている、というのは不可解な気がしてきた。もちろん決して仕事ができない人、というわけでもなく、口数は少ないがいつの間にかいろいろ終わらせていて、いつも見習いたい、とほれぼれする先輩だ。それなら何か理由があるのだろうか。

「来週はゴールデンウイークが入って研修は小休止ね。そうなるとこっちで会うのは再来週か。父がデイに行った時は、またよろしくお願いします」

 二宮さんの言葉で我にかえった僕は、福沢さんについてふと浮かんだ疑問をすっかり忘れてしまった。

 

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こんゆじまじこ
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