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エリンジウムの花ことば 第6話

 くす玉の先から伸びたたこ糸の引きひもを、僕が手に取ってはつ子さんの手に握らせようとした瞬間、なんとくす玉がパカッと割れて開いてしまった……。

「あ……」

 色とりどりの紙吹雪が舞い、僕が顔面蒼白になった時、後ろの方で大きな拍手の音がし始めた。

 二宮さんだということは、すぐにわかった。

 つられて、利用者の皆さん方や理事長はじめ施設の偉い人たちも、一緒になって拍手をしてくれた。みんな、僕がフライングでくす玉を割ってしまったのを、まるで見ていなかったのかと錯覚するほどだった。

 あ~、利用者さんを転倒させてしまったとか、そういう事故ではないにせよ、あれは失態だったなぁ、と思うとヘコんだ。だけど、あの時二宮さんが助け舟を出すように大きな拍手でごまかしてくれなかったら、微妙な空気に包まれて、どう挽回すればいいか途方に暮れてしまったかも。

 やっぱりすてきな人だ。見た目だけじゃなく、あんなふうに咄嗟とっさに大人の対応ができるところに、僕は惹かれているんだ。失敗でヘコんだにも関わらずふつふつと嬉しさがこみ上げて、おかしな気分だった。


 誕生会のレクが終わって、ひと足先にデイルームを出て帰ろうとする二宮さんを追いかけた。

 仕事が終わったあと、少し話がしたいと伝えると、銀次さんのお迎えが済んだら、二宮さんの自宅から数分のところにある、住宅街の中のこじんまりした公園で待っていると言ってくれた。デイサービスの送迎で何度も通っているから、その公園はすぐに思い浮かんだ。

 定時ぴったりに無理やり退勤して急いで職場を出ると、降り出したばかりの雨がアスファルトを濡らしていた。リュックから折りたたみ傘を出して差し、足早に歩き始めると、ちょうど家を出てきた二宮さんと行き合うことができた。心臓が跳ねる。

「忙しい時間に呼び出したりしてすみませ」
 僕が言い終わらないうちに、
「きゃ、」
 二宮さんが雨に濡れた道路に足をとられて滑りそうになった。慌てて僕は彼女の手をつかんだ。
「傘、閉じてください。手も、このまま」
 僕がつないだ手を離さなかったから、二宮さんはいったん目で訴え、つないだ手を一度離して傘をたたんだ。僕はそれを待って二宮さんの右手を再びしっかりと握り、右手に持った傘でできる限り彼女を雨に濡らさないようにした。

 すべり台とブランコがふたつあるだけの、ひと気のないちいさな公園は、雨に煙ってベールをかけたようにかすんでいた。まるで、世界から僕たちふたりを隠してくれているような気がした。春の終わりのやわらかな雨の中、大きな木の下にたたずむ瞳子さんをまっすぐ見つめ、僕は言った。

「僕、瞳子さんのことが好きなんです」
 一瞬、彼女の目に動揺が走る。
「私、あなたのお母さんより年上なんじゃない?」
「母は、58です。もっと上だし、そんなこと、関係ないです」
「や、大ありでしょう……。私の息子たちは、あなたよりも年上だし」

 驚かない話しぶりから察するに、彼女はとうに僕の気持ちに気づいていたのだ、と確信した。
「どうして、私なの……?」
「初めて、銀次さんのお迎えで出会った時からずっと。最初は見た目で、すてきな方だなって。僕、同世代にはあまり魅力を感じなくて」
「ごめんなさい、私、気をもたせるようなこと、しちゃってたかな」
「そうじゃないです、僕は瞳子さんを好きになっちゃったんです。結婚している人を好きになっちゃいけないですか? そんなの僕には無理だし、そもそも好きになっちゃいけない人なんていないです」
「私は、あなたの気持ちに応えてあげられないのに……」
「僕じゃだめですか? そばにいさせてください。瞳子さんがだめって言っても、僕の気持ちはもう止められません。好きです! 僕と、一緒にいてください」

 5月になって、なんとも中途半端な時期に僕はショートステイに異動になった。デイサービスとショートステイは同じ課だし、両方を使い分けている利用者さんもいる。だから協力体制ではあるものの、なんだかんだ結局は別物だ。いよいよ夜勤もやって行かなくてはならないのだ、と思うと、前の仕事で務まらなかった夜勤を思い出して、少なからず不安になった。ただ、早々僕もここ以外に行く場所はないんだ、と思うと、崖っぷちの覚悟を決めざるを得なかった。

 でも、どんなに仕事がつらくても、僕には瞳子さんがいる。瞳子さんへの思い、あの雨の中、瞳子さんが明かしてくれた僕に対する気持ちも、思い出すたびに嬉しくて、自然に笑顔になった。

「実は私も、いけないと思いながら、あなたのことばかり考えてしまってたの……」


 ゴールデンウィークも過ぎ、新緑が目にまぶしい季節が来た。汗ばむ夏めいた陽気が増えて来た5月の終わり、早番、日勤帯の仕事を順調に先輩たちについてこなしてきて、いよいよ初めての遅番の仕事を教わって行く時期になった。遅番の仕事のメインは入浴介助で、13時に出勤したらすぐさまその日の入浴する人の状態確認をする。ほぼひとりで3~4人ほどの入浴介助をこなしてから休憩を終えると、7時から16時の早番者は既に退勤しているため、夕食前の利用者さんのトイレ誘導やおむつ、尿パッドの交換を済ませる頃には夕食の配膳が始まる。遅番ができるようになったら、次はいよいよ夜勤だ。

 今日は福沢さんが一緒について遅番をやってくれる日になっていた。ショートステイの利用者はマックス8名で、実際には緊急時の対応のため1名分の部屋は空けておかなくてはならない。でも実情はそうも言っていられず、この日も満床8名の利用者が短期で入所していた。

 僕は就寝の支援をするため、81歳の飯田 結美子さんのいる1号室へ入った。

 飯田さんはひなた苑からは決して近くない、隣りの市の遠い場所からの利用者だった。むしろ飯田さんの自宅近くの方が、デイにしろショートにしろ施設数は多いはずで、ここにくる理由はなんだろう? と、ふと思わなくもない。

 半年ほど前からデイに通っていて、僕も何度も様子を見ていたけれど、認知症らしき兆候はほとんどなく、いつも身綺麗にしている。華奢な身体つきで、きちんとお化粧して、同年代の他の女性の利用者さんたちと比べてしまうと、いい意味で浮いている存在だった。

「飯田さん、夜の8時なのでパジャマに着替えましょうか。タンスから今夜着るパジャマ、ご自分で好きなの出してくださいね」
「はい、わかりました。ねぇ、あなたお名前なんだったかしら」
「僕、久保田ですよ。久保田 あおい。よく女の子と間違えられます」
「あら、そういえばそうね。葵は植物だけど、源氏物語にも出てくるわね。人の名前で」
「そうみたいですね。僕は全然わかんないんですけど、僕の母が源氏物語が大好きで、どうにかして関連の名前をつけたかったみたいなんですよ」
「あら。そしたら、ご兄弟はいるの? 兄弟で源氏物語ゆかりの名前だったりして」
「兄がいるんですけど、男の子で源氏物語の名前をつけるのが難しくて、その時は諦めたって言ってました。薫って男性が出てくるけど、秘密があって、自分の子につける名前としては問題だからとか言って。僕の時はさすがに、諦められなくて苦しまぎれに葵にした、って。葵って女の人なんですよね?」
「そうね、光源氏の最初の奥さんよ。確かに、薫はそういう意味ではつけない方がいいわね」
「そういえば母が葵のこと、そう言ってました。飯田さんも詳しいんですね。ごめんなさい飯田さん、もっとお話聞きたいんですけど、これから他の方にもおやすみなさいのお声かけしていくんで、よかったらまた明日聞かせてくださいね」
「ええ。あと、あの、今日もうひとりいる男性の職員さんは、なんというお名前?」
「ああ、福沢さんですか? 福沢さんが何か」
「どこかでお会いしたような気がしていて……。どうしても思い出せないの」
「そうなんですね。思い出したら教えてください。パジャマに着替えてくださいね。おやすみなさい」

 ショートステイを利用する人たちの状態は様々だ。

 「レスパイト」ということばがある。一時中断、小休止という意味だ。ショートステイを利用することで、介護を担っている家族がしばし休むことができる、という役割がある。介護を家族だけ、ましてやひとりだけで抱え込むなんて到底無理なのだ。介護度が進めば進むほど、家族の負担は当然大きくなる。心も身体もだ。その負担を少しでも軽くするために介護士がいて、施設があるのだけど、介護のサービスを受ける権利がありながら、『他人に任せるのは後ろめたい』だったり『介護は家族が担うべきだ』という世間体や固定観念にとらわれている人が、実にまだまだ多く存在する。


 ひなた苑の夜勤は22時からで、退勤は朝7時。利用者さんたちは、ほとんどが20時の時点で就寝してくれる。福沢さんに見守られながら、22時に出勤してくる夜勤者に、無事申し送りをして退勤した。

 福沢さんと一緒に男子更衣室で私服に着替えながら、ふと思い出してなにげなく聞いた。

「そうだ福沢さん、さっき飯田さんの就寝支援に入ったら、福沢さんの名前を聞かれましたよ。どこかで会った気がするのに、どうしても思い出せない、って」
「そうか。俺がタイプなんだろ」
「いやいやいや。またそんなことをしれっと言いますね。親子ぐらい違いません?」
「あの人いくつだ」
「確か、ちょうど80じゃないですか?」
「や、先月あたり81になってるだろ。28歳上か、まぁ確かに親子だな」
「でも、考えてみたら航平さんなんて32で、利用者さんたちの年齢から見たら孫と言ってもおかしくないんですよね。それでも、『こうちゃん♡』ってかわいい声出すおばあちゃんいますもんねぇ……」 
「まぁ、あれだ。人間トシとるとそういうの、タガが外れるのが一定数いるもんだよ。女性の職員触っちゃうジジイとかもそう」
「福沢さん、ジジイはマズいですよ……」
 この人の口が悪いのは実は照れ隠しだ。本来の福沢さんは人が好きで、なるべくして介護福祉士になったのだろうと容易に想像できる。そうでなければ、あそこまできめ細かな介護はできないだろう、と僕には思えるのだ。

 翌週から、いよいよ夜勤を覚えていくことになっていた。まさかそこで、福沢さんがリーダーになれない理由を知ることになるとは、この時の僕には知るよしもなかった。

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