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【映画雑記】映画「暴力脱獄」という福音。ルークという救世主。
久しぶりに「暴力脱獄」を観た。
ポール・ニューマン主演の1967年のアメリカ映画。彼が演じるのはとある刑務所に器物損壊でぶち込まれた男。その名はルーク・ジャクソン。自分にとって、映画の中でこれ以上にカッコいい人はいないと断言する。
ルークはとにかく挫けない。そして、刑務所の中で自分の境遇を惨めに感じている連中に福音をもたらす救世主として描かれていて、劇中には十字架やキリストを彷彿とさせるイメージが散りばめられている。これは元の脚本や原作にはない要素でローゼンバーグ監督の判断によるもの。
でもルークは誰かを救いたいわけではない。手の内は空っぽ(=通称クール・ハンド・ルークの由来となる)でもただ倒れなければいいとばかりに次々と自分を追い込む。一番救いたいのは自分なのではないか。しかしそんな姿が不屈の男に見えて図らずも囚人たちの希望のような存在になってしまう。
初めて観たときは、自分もそんなルークを無邪気にカッコいいと思っていたが、歳を重ねるごとにルークほど孤独で不器用な戦い方をしているアンチ・ヒーローは他にいないのではないかと思うようになった。母の死に静かに涙するも、それをきっかけにタガが外れたように何度も脱走を試みる。そのたびに空っぽな手で自らをすり減らしながら危機をすり抜ける。しかし、そんな戦い方がいつまでも続けられるわけがないのだ。矢吹丈がそうだったように。ルーク自身がわかっているように。だから最後の教会での独白のあと警官たちの前に姿を晒して「ここにいるのは言葉のわからない男だ」と刑務所の所長の言葉を借りて挑発したのは彼なりの人生の終わらせ方、事実上の自殺だったのだろうと思う。
最後を自分で選んだ彼は孤独だった。しかし笑みを浮かべていた。最後まで。観終わったあとに思うのはルークを慕ってウロチョロしていたドラッグラインと同じで「奴はいつも笑っていた」。空っぽの手で戦っていつもボロボロになっていたけど、笑っていた。自分はそこに魂の自由を見つける。何人たりとも触れさせない魂の自由。
ルークはその笑みによって、我々のような挫けがちな連中の孤独を癒やす。自身を縛る様々なものから、せめて魂だけは自由であれと励ます。ローゼンバーグ監督のキリストのイメージの重ね方は多少露骨だが、ルークはやはり救世主なのかもしれない。
歳を重ねるたびにこの映画がどんどん好きになる。しかし遂に出演時のポール・ニューマンより年上になってしまった。まいったぜ。