守本 和宏|プロフィール
今年、「仕事でこんなに泣くのか」というほど泣きました。
守本和宏です。24歳でバルセロナに移住して4年間⚽️サッカーライター兼編集者として活動し、年商1200万円ぐらいまでいって帰国しました。
そして2020年、社長5年目の40歳。
”自分はこんなにこの仕事を好きだったのか”と、気付くぐらい泣きました。周りがどれほど僕を信頼し期待してくれていたか、改めて知ったからです。
✒最近の執筆歴
📝寄稿媒体歴
💻WEB制作歴
👨💻実績・やってきこと
<主な取材歴>
⚽️UEFA EURO
EURO2000:開幕から閉幕まで現地観戦 31試合中/18試合ぐらい
EURO2004:開幕から閉幕まで現地観戦 31試合中/24試合ぐらい
EURO2008:開幕から閉幕まで現地観戦 31試合中/23試合ぐらい
EURO2012:某公式サイトでWEBディレクターを務める
EURO2016:某公式サイトでWEBディレクター&SNS担当を務める
⚽️リーガ・エスパニョーラ
2004~2008年まで毎週バルセロナ、エスパニョールの試合を中心に観戦、取材・執筆。CL決勝など取材。
⚽️アテネオリンピック2004
スポナビに原稿掲載。
⚽️ワールドカップ
2016年ドイツW杯、抽選会の時にベッケンバウアーの椅子に座って写真撮ってたら、他国のジャーナリストに笑われる。
⚽️その他、コパ・アメリカ:2004ペルー・2008ベネズエラ、アフリカンネーションズカップ、コンフェデレーションズカップ、他
🏆2008年以降は、陸上、女子バスケ、アメリカンフットボール、海外サッカー、フィギュアスケートな中心に取材中。
※お仕事のご相談はこちら → https://twitter.com/jets8 からメッセージでどうぞ。
序章-兵庫県の村からバルセロナへ
兵庫県川西市の山奥、10軒9世帯(1軒空き家)の村に生まれ、リトバルスキーのFKを見てサッカー好きになったのが中1の時。それから毎月、雑誌『ワールドサッカーグラフィック』を最初から最後の一文字まで読み(広告除く)、サッカーライターになりたいと思ったのが高校二年生。
目標もなく大学に行く勉強ができなかったので、編集の専門学校に進み、餃子の王将バイトで貯めたお金を使って、EURO2000で初の海外旅行35日&現地観戦に挑戦したのが20歳。その後、先輩の「編集者になるなら東京」との助言で上京。池袋駅前の書店で買ったビーイングを見て、企画・編集会社に入りました。
中期目標「3年編集者をやったら、EURO2004はフリーライターとして仕事で行く。以降は海外に住んでサッカーライターをやる」を実行。24歳でフリーになり、EURO2004、コパ・アメリカ2004、アテネ五輪を取材しました。
そして、スペイン語の知識ゼロで、バルセロナに移住。理由は、”中学校の時買った雑誌にバルセロナのポスターが入っていたから”。その後、世界でも稀にみるラッキーボーイの僕は、東京中日スポーツの通信員をやったり、エル・ゴラッソの立ち上げから寄稿したり、有料携帯サイト(当時隆盛だった)で複数連載を持ったり、スペインでいっぱい働きました。
中でも面白かったのが、エスパニョール選手寮で生活していたこと。まさか友達がレアル・マドリーの一員になってクラシコに出場したり、横のベッドで寝てた子が中村俊輔選手とパス交換したり、そんなことになるなんてね。
https://note.com/jets8/m/m0b63300dc900
いろいろ単発の仕事なども含めて、4年で年商1200万円ぐらい行った後、帰国。その時は、マスコミにこだわっていたわけではないので、「就職先なければ中華屋でもやるかな」「エグザイルのメンバーオーディション(ダンサーで)とか受けてみようかな」と考えていたわけです。
第2章-バルセロナから偶然社長へ
でも、ライターデビューするきっかけをもらった上司から誘ってもらい、原稿を出していた会社ナノ・アソシエーションに帰国と共に就職。ライティングを武器に、WEB制作中心として、一眼レフ撮影、Photoshopとillustratorを使った簡易デザイン、コーディング、イベント企画・台本、グッズ作成・版権交渉、そのうちプレミアを使った動画編集などを仕事にするのでした。
その中で偶然、2015年11月。子会社の社長になってしまいました。
元々経営がやりたかったわけじゃありません。
ただ、自分の仕事・やりたいこと、「情熱を伝える」「状況に応じた最高のものを作る」「社会に貢献する」を貫いていたらそうなっただけ。
個人的には、じゃんけんで勝ったぐらいのイメージです。
母にも一応報告だけしたら、
「えー大丈夫なん?やめといた方がええんちゃうの」
「うーん、私もそう思うんやけどな」
という会話も交わされたほどです。
それでも、会社が5期目に差し掛かり、ある意味順調に利益が上がっていく中、事件は起きました。
第3章-偶然社長から再出発へ
10年以上続けていた、とある仕事がなくなったのです。
もちろん想い入れがありました。
もう彼ら・彼女たちの取材ができない。
一番ショックだったのはそれです。
でも、気付いたのは別のこと。
取材できないのと同じぐらい、一緒に仕事をしてきた人たちと、
これから仕事できなくなるのが悲しかった。
ナショナルクライアントからしたら、小さな制作会社を切るのなんて、簡単なこと。
「はいはい、終わり、終わり」で片づけてもいい。
なのに、3人も、こんな私に対して「ごめんなさい」と頭を下げにきてくれたのです。
企業として重要なパートを、10年以上も守本に、全幅の信頼を寄せて任せていただいた。クライアントがダメ出ししないものでも、守本がクオリティチェックして出してくれると、信頼してもらっていた。
その期待に成果で応えられなかった自分、結果としてその期待を裏切ってしまった自分が何より悔しかったのです。
未来章-「一緒に次に進みましょう」と声をかけてくれる人々
後悔しない生き方をしてきた。
毎日、やるべき最善のことをやってきた。
自分ではそのつもり。
そのつもりでやってきたけど、結果が出なかったのは、つまり努力や挑戦が足りなかったということ。
そこに一切の言い訳はありません。200%自分のせいです。
自分のせいで、信頼してくれている人の期待をうらぎった。それが悔しい。
それでみんなに「ごめんなさい、俺のせいで仕事なくなりました」と言ったら、「また一緒に、次に進みましょう」と声をかけてくれる。『一緒に』とまだ信頼してくれる。
そんなことを改めて感じたら、ボロボロ泣けてきました。
自分のために尽力してくれた人にメールを書いては泣き、
関連スタッフにお詫びの電話をしては泣き、
大江戸線に乗っては泣き。
むしろ、歩いてるだけで泣ける。
「仕事で泣いて、何が悪い」と開き直れるぐらいに泣きました。
だから、もう迷わず、伝えることにどん欲に生きようと思います。
日々、挑戦すべきことを探していきたいと思います。
そんな意識で仕事をしている人なので、よかったら、あなたのことを書かせてください。今までに身に着けたライティングを始めとした技術が、社会の役にたつのなら、これ以上幸せなことはありません。
命をかけて伝えたい。
その情熱を、文章や写真やWEBで表現したい。
そんなことを考えているのが、守本和宏です。
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◇プロフィール
高校2年時にサッカー雑誌の編集者になりたいとの夢を持ち、専門学校の雑誌編集コースへ進学。卒業後、上京し企画・制作会社に就職。政府広報、生命保険の情報誌・営業ツール制作、床材会社社内報、第三セクターの周年企画、ビジネスコンサルティングCD販売などに携わる。
2004年に退社し、スペイン・バルセロナへ移住。フリーのサッカーライターとしてヨーロッパ選手権やオリンピック、南米選手権、アフリカ選手権、ワールドカップなど取材。新聞・雑誌・WEB・携帯サイトなどに連載を持つ。
2008年の日本帰国後、TV局などのスポーツ関連WEBコンテンツ制作・HP制作を担当。HP更新/運用、グッズ企画など手掛ける。2015年11月、分社化により(株)ナノ・クリエイト代表取締役に就任。2014年~2016年ヒューマンアカデミー スポーツマネジメント講師。
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芋けんぴが好きなので、芋けんぴ代にさせていただきます。お仕事のご依頼もなんなりと。本当はWEB制作・企画、運用などが軸です。写真撮影、動画編集、サーバ管理、コーディングと、制作に必要なことはだいたいやれます