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人生どん底まで堕ちたけど、逆に人の痛みがわかるようになった話。
学生の頃、ある有名な野球選手が覚せい剤取締法違反で逮捕された。
タバコを吸いながらスマホ片手にその報道を見た俺はこう思った。
―――あんなにみんなから憧れの的だった選手がクスリで逮捕なんて
―――バカかよwwなんでやめられねぇんだよww
友達と飲み屋で彼の話題を出しては嘲笑しあっていた。
当時の俺はそこそこ優秀で、そこそこ友達もいて、そこそこ楽しい学生ライフを過ごしていた。
順当にいけば普通に自立して、会社員になって、結婚して、親孝行して、定年を迎えたら好きなことをやってそれなりに人生を終えるだろう。
そんなことを想像しながら生きていた。
―――薬で犯罪?(笑)自分には関係のない話だ。
その時はそう思っていた。
―――27歳の時に依存症施設に入所するまでは。
俺は現在31歳。ある精神障がいを抱えており、生活保護を貰いながら生活している。
病名は「病的賭博」。いわゆる”ギャンブル依存症”という病気だ。
加えて発達障害(ADHD/注意欠陥多動性障害)と双極性障害も持っている。三刀流だ。
社会に出たのを皮切りに消費者金融から多額の借金をしながらギャンブルにのめりこんだ。
ギャンブルをする為なら日常生活や人間関係、仕事など、生きていく上で大切なものを全て放棄した。
結果、周りに人はいなくなり、家族にも散々迷惑を掛け信用を失った。
そんなこんなで家族に連れられ、27歳になり施設に入所することになる。
そこには学生の時に想像していた自己像とは全く違う俺がいた。
現実を受け入れるのに時間が掛かった。
施設に入所している人たちはスタッフを含めてほとんどが依存症の患者だ。
前科を持っている人や犯罪を犯して入所した人が半分以上を占めていた。
それらを見て俺はこう思った。
―――俺はこいつらとは違う。俺は病気じゃない。
前述した野球選手を嘲笑したときのように、自分は違う、自分には縁がない、ということを必死に証明したかった。
施設で過ごしている間、俺の心の中で、今までにないほどの葛藤、怒り、恐れを感じるようになっていた。
日々の施設のブログラムに対する批判、施設の仲間に対する批判、愚痴が絶えなかった。
街を歩けば普通に暮らしている人たちを見て、劣等感を抱いた。
携帯も持たされず、外界との接触もなく、友達や家族の時間は依然として進んでいて、生活保護でだらだらと暮らしている自分だけ時間が止まっている感覚に陥り、焦った。
自意識過剰になった。家族は、友達は、世間は、俺の事をどう見ているのだろう、と常に不安だった。
こうして日々溜まりに溜まっていく負の感情は色んな形になって姿を現した。
思うようにならないと体調を崩した。引きこもり、鬱が再発した。
限界が来ると何度も脱走をし、ギャンブルをした。
脱走途中で金がなくなり、万引きしたり、多目的トイレで寝泊まりしたりした。
惨めだった。悲しかった。どん底だった。
どうしてこうなるのかがわからなかった。
生きていることさえ諦めそうになったこともあった。
そんな中で、自分が失敗するたびに、ずっと自分とは違うと思っていた施設の人間から心配され、慰めてもらった。
人の言葉ってこんなに温かいのか、と思えた。
嬉しかった。また頑張ろうと思えた。
何度か山を登っては谷に落ちる、そんな七転び八起きの療養生活だ。
そしてそれは今も続いている。
何度か失敗を重ねるうちに、俺はこう思うようになった。
―――周りとは違う?いやいや、俺も同じようなことやってんじゃねぇか。
―――周りの人たちも同じような経験を重ねてきたからこそ自分を温かく見守ってくれているのかもしれない。
違い探しというのは自分自身を盲目にさせるものだ。
俺は自分では認められなかったことを認めた。あぁ、俺はギャンブル依存症なんだ、と。
施設生活を経て、今では人の痛みがわかるようになったと思う。
なぜなら、自分自身も痛みを抱えてきたから。
俺にとってのギャンブルはいわば、その痛みを和らげる為の処方箋のようなものだったのだ。
ギャンブルに狂う俺はあくまで表面的な俺に過ぎない。その根本には、拭おうにも拭い去ることの難しい”生きづらさ”を抱えていたのだ。
そしてそれは、俺以外の依存症の方にも言えると思う。
現代社会において、俺のように依存症になったり、犯罪を犯してしまったり、ホームレスになってしまう人がいる。
皆それぞれ、それぞれ異なるものではあるけれども、”生きづらさ”を抱えながら生きているのではないだろうか。
こうした人たちのセーフティネットは形としては存在するのに、暗にこのような人たちを排除しようという雰囲気が、SNSや動画サイトを中心に蔓延しているように思う。
外っ面だけで人を判断せず、その人の根本の部分も含めて、互いに認め合い、尊重しあう社会であってほしい。
今の俺は学生時代の俺にこう伝えたい。
―――明日は我が身、かもしれんぞ。
と。