開戦前夜 その2 愛国者学園物語 第233話
(2826字)その一方で、
対戦相手の国会議員、吉沢友康は不安に駆られていた
。その不安の元は、弟子であるはずの強矢だった。60代の彼から見て、中学生の強矢は頼りなく、知的でもなかった、吉沢には長年の経験から身についた機転の速さもあるが、強矢にはそういうものはない。
それは彼女が複雑な内容の演説をするには若過ぎるからであるが、それ以前に、学力や社会問題に関する知識、それに常識が足りていないことも事実だった。
とにかく危なっかしいのである、強矢の演説は。彼女は過激なことを言うのが言論の自由だと思いこんでいる。それで、反日勢力を殺さないと日本の安全を保てないと演説しようとしたので、吉沢が止めたことがある。強矢は激怒して、なぜそれがいけないのかと自分に喰ってかかったので、吉沢は、言いたいことがあっても2割くらいは削れ、それに、いくらなんでも、人を殺すはダメだ、とたしなめたのだった。強矢は怒ったままだったが。
それに社会問題の知識に欠けるので、所属する芸能プロはスピーチライターを雇い、彼が書いた原稿を強矢に暗記させてしゃべらせることを繰り返した。それを面白がった関係者たちは、さらに彼女に過激なことを言わせる、悪ノリをさせるようになったのだ。
吉沢は嫌な予感がしたので、強矢を取り囲む大人たちに意見を言うと、
「悪名(あくみょう)は無名に勝る、ですよ」
と何ら悪いことだと思っていない返事が返ってきたので、失望した。
強矢の口が達者なのは、そういうカラクリによるものであり、それは、努力の人である吉沢の心に彼女への嫌悪をもたらした。だが、有名人の彼女を上手く利用すれば、政治家である自分の利益になるわけで、仕方なくつきあっているわけだ。
そういう強矢だから、現場の苦労を知らない子供なのだ。吉沢は鏡に写る日焼けした自分の顔を見て思った。日本で一番日焼けしているのは、ゴルフの青木功(あおき・いさお)と歌手の松崎しげる、それに吉沢だと言われたぐらいだ。勉強は出来るけど色白で頼りないと、女性たちに振られてばかりいた若き日。そんな自分は街頭演説を繰り返すことで、生まれ変わったのだ。演説をするために来る日も来る日も街角に立った。そして、必死に話す吉沢の思いを誰も聞いてくれない日々は数えきれなかった。吉沢の仕事は立ち去る有権者の背中に話しかけることだ。そういう中傷もあった。
だが、そういう日々が自分を白皙(はくせき)の青年から赤銅色に日焼けした国会議員へと変えたのだ。あれは楽な日々ではなかったが、早稲田の弁論部上がりの自分が真の意味で政治家になれたんじゃないか、そう思える毎日だった。強矢にはそういう苦労がない。だから、いかに人の心に訴えるのかがわからない。わかっていない。
今回の討論会はホライズンのネットワークを使い、全世界に中継されるのだ。それに50ヶ国語で字幕もつくという。そんな大舞台に、強矢を出して大丈夫だろうか。当の本人は「奴らをぶっ潰してやります」と大声で叫び、それで、愛国者学園で行われた壮行会は大いに盛り上がったそうだが……。
彼女はアイドルのように、いつも取り巻きに囲まれていて、人気者だ。
動画サイトでも彼女の動画には、熱狂的なファンからのコメントが山のように書き込まれ、強矢はそれを読んでいい気になっている。まるで、おべっか使いたちに囲まれた裸の王様だった。それも甘やかされた子供なのだ。
(
あいつは、自分のような苦労をしたわけじゃない……。
本格的な論争には耐えられるわけがない。ウェルマンの「反対尋問」(はんたいじんもん)を読みこなしているような人間に突っ込まれたら、強矢なぞとても耐えられない。……あいつだ、根津だ。根津はあの本に詳しいんだ。果たして、強矢は大丈夫か。根津の猛攻撃に耐えられるだろうか。今回は強矢がメインで話し、自分はサポート役だが、反対の方がいいんじゃないか)
政界きっての乱暴者かつ演説の名手である吉沢友康の疑念は止まらなかった。
その一方で根津たちはどうしていたか。ある日のこと、根津は公安警察時代の思い出話をしていて、急に表情を曇らせた(くもらせた)。
「真実なんて知らないほうがいい。それを暴いたり(あばいたり)しないことだ」
日頃はのんびりした顔をしている根津が、このときはなぜか厳しい表情になった。
「なんですかそれ? 根津さんの格言ですか?」
美鈴はその言葉の真意に気づかずに言った。
「そうだよ。ある本を読んでいて、そう感じたんだ」
「なんの本ですか?」
「ウェルマンの『反対尋問』という本だ。私が大学生のときに手にしたんだけどね。裁判に不可欠な反対尋問の実例集なんだ。アメリカの本で、20世紀の初めに初版が出て、100年以上も読まれているロングセラーだ。それを読んでいるうちに、真実を探ることの恐ろしさを感じたんだよ。反対尋問で真実が明らかにされた例がいくつも出ていた」
「例えばどんな話です?」
そうは言ったが、美鈴は話が長くなるのではと思い込み、聞く気がほとんどなかった。
「リンカーンの話。あの大統領の」
「あの人って…法律家だったんですか?」
「そう、大統領になる前はね、弁護士だったんだ」
根津はここでリンカーンのある例を紹介した。
それは、ある殺人事件の容疑者の弁護を、リンカーンが引き受けたという事例だった。容疑者が森の中で殺人を犯した、と目撃者は証言した。リンカーンは、目撃者に対して慎重に質問を繰り返すことで反対尋問を行い、当時の状況を明らかにした。そしてついに、当日は月が出ていたので、暗い森の中で犯行の様子が見えたという証言を目撃者から得ることに成功した。ここでリンカーンはカレンダーを取り出した。そして、犯行当日が新月であり、月明かりはなかったことを証明し、目撃者の証言を崩したのだった。
「真実は怖いんだよ。大学時代にそれを学んだんだけど、友人たちと『反対尋問』を読み込んだのも、今となっては良い思い出だ」
美鈴は困った。討論なぞほとんどしたことのない自分が強矢たちと激しく論戦を交わし、彼らの本性を世界に伝えられるだろうか。それに「反対尋問」には参った。文庫本で730ページもあり、裁判の様子が逐一(ちくいち)記されているだけあって内容が細かいそうで、美鈴にはとても使えそうになかった、だが、根津に話すと、意外な答えが返ってきた。
「これを『愛国砲弾』のスタジオで実践しなくてもいいんだ」
「じゃあ、なぜその本の話を?」
「それはね、他人に質問することは決して失礼じゃないということ、そして、反対尋問のようなやり取りを繰り返して、お互いの意見を明らかにすることが大切なんだ」
美鈴は自分にはそれが出来なさそうだと感じた。美鈴は正直にそれを話すと、根津は優しく微笑んだ。
「素朴な疑問を述べるだけでもいいんだ。討論をしても、日本人は考えすぎで、せっかくのチャンスを逃してしまうことが多いんでね」
「素朴な質問……」
美鈴は繰り返した。
(出来るかしら?)
続く
これは小説です。