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【歴史小説】エルサレム ダビデのカナン統一 第1章

産経新聞に紹介されました

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はじめに

 エルサレム。
 世界3大宗教、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地である。
 今なお争いの絶えないこの地の名の由来は、古代イスラエル王国のヘブライ語で―平和への道―である。
 古代イスラエル王国は、現在のイスラエル及びレバノン一帯である。

 今から3千年前、紀元前10世紀にこの地を古代イスラエル王国の王都に遷都した王がいた。
 王の名はダビデ。
 ミケランジェロのルネサンス期を代表する彫刻『ダビデ像』のモデルである。

 この物語は、遷都した王都にエルサレム―平和への道―と名づけ、イスラエルに住む全ての人々の平和のために生涯を捧げた、ダビデ王の物語である。

ミケランジェロ作のダビデ像
イスラエル国旗 … 国旗の中心にはダビデの星が描かれている

ダビデのカナン統一 目次

第1章  ダビデ
第2章  サウル
第3章  メシア
第4章  覚醒
第5章  ペリシテ
第6章  アサエル
第7章  モアブ
第8章  エドム
第9章  シオン
第10章  ウリヤ
第11章  密偵
第12章  決戦
第13章  統一
参考文献

第1章 ダビデ

 今から3千年前、紀元前10世紀。イスラエルの町ベツレヘムでは春を迎えていた。
 ベツレヘムの町から外れた小高い丘には、真っ赤なアネモネや真っ青なルピナスの花々が咲き誇り、少年が羊の群れを放牧させていた。
 少年はきゃしゃで手足が長く、肌は透きとおるように白く、鼻は高く真っ直ぐにとおり、切れ長で大きな瞳は碧く輝き、豊かな髪は太陽の光を浴びて黄金に輝いていた。
 少年は放牧の間、竪琴を弾きながら歌を歌い、丘には甘いテノールの声が響き渡っていた。
 羊たちはその美しい歌声に聞き惚れているかのように穏やかであった。
 少年が歌い終えると、丘には元の静けさが戻った。

 すると突然、その静けさを破るように2頭のライオンが羊たちめがけて突進してきた。
 ライオンは2頭とも体長3mを超えるたてがみ豊かな雄ライオンで、時速60kmで風を切り、羊たちに迫った。
 羊たちは鳴き声を上げながら一斉に逃げ出したが、時速20kmほどしか出ない羊たちはまたたく間にライオンに追いつかれた。
 少年は傍らに落ちていた小石をすぐさま4つ拾うと、ひるむことなくライオンめがけて次々に小石を投げた。
 小石は全てライオン2頭の4つの眼に命中し、眼球は全て砕けた。
 ライオンは吠え狂い、鋭い爪や牙を剥いて暴れ回った。
 少年はすかさず拳ほどの岩を拾ってライオンに跳びかかり、暴れるライオンの頭蓋骨を次々に叩き割った。
 2頭のライオンは即死したが、少年は汗一つかいていなかった。

 少年が放牧を終えて家に戻り、羊たちを納屋に入れていると、家から細身で端正な顔立ちの中年の女性が出てきた。
「母さん、今戻りました」
 少年が微笑むと、母親は急いだ様子で告げた。
「ダビデ、あなたにお客様がいらしているわよ」
「私にですか? 誰だろう?」
「王様のお使いの方だそうよ。何でもこのベツレヘムに竪琴の大変上手な少年がいると聞いて、あなたに会いにいらしたそうよ」
 ダビデと母親が急いで家に入ると、父親と3人の兄が王の使者二人と食卓で話をしていた。
 ダビデの兄たちはみな凛々しく端正な顔立ちの青年たちであったが、髪は赤く、肌は薄い褐色で、ダビデの男性離れした透明感のある美しさは持ち合わせていなかった。

 ダビデが食卓の前に立つと、使者の一人が振り返った。
「君がダビデか?」
 その使者は、茶色の大きな瞳に高い鼻と豊かな黒髪を持つ精悍な顔立ちの少年で、ベージュの衣服の首回りや袖口には刺繍が施され、革の帯を留め、革製の靴を履いており、もう一人の使者と比べ、明らかに上等な装いであった。
 ダビデはその使者の装いに圧倒されながらも、はい、そうです、と即答すると、その使者は褐色の瞳を輝かせた。
「私はヨナタン。王家の使者だ。このベツレヘムでは誰もが一様に、君の竪琴の音色とその歌声は素晴らしいと言っている。私にもぜひ聞かせてくれないか?」
「はい。」
 ダビデはすぐさま竪琴を取って来ると、早速演奏を始め、歌声を披露した。
 ヨナタンはダビデの奏でる音色と甘く美しい歌声にすっかり聞き惚れた。

「君に決めた! 実に素晴らしい。君のその素晴らしい歌声と琴音でわがサウル王を癒してくれ」
 ダビデはヨナタンの言葉に目を丸くしながらもひざまずいた。
「はい。王様のためならば、私はいつでもどこへでも馳せ参じます。そして、王様の心ゆくまでこの竪琴を奏でましょう」
「ありがとう、ダビデ。君のその手製の竪琴も良いのだが、君さえ良ければ、王にお聞かせする竪琴は私に用意させてもらえないか?」
「はい、もちろんです。仰せのとおりに」
「では、早速だが、今から王宮で君の音楽を王に聞いてもらおう」
 ヨナタンは嬉々としてダビデを家の外へ連れ出した。
 もう一人の使者はダビデの家族に礼を言うと、ヨナタンに続いてダビデの家を後にした。

「王宮はギブアだ。ここから北東へ20kmほど行った先だ。見た限り君の家には馬がないようだな。私の馬に乗れ」
 ヨナタンの馬はヨナタンがまたがるとヨナタンが小さく見えるほどに体格の良い、体長2mを超える青い目をした真っ白な白馬で、ダビデはその美しさに目を奪われた。
「見事な白馬だろう。こいつはどの馬よりも早い駿馬なのさ。さあ」
 ヨナタンは白馬にまたがると、ダビデに手を差し伸べた。
「ありがとうございます」
 ダビデが差し伸べられた手を借りることなく瞬時に白馬に跳び乗ると、ヨナタンはダビデの跳躍力に目を見張った。
「君は筋がいいな」
 ヨナタンが気を取り直して白馬を進めると、もう1人の使者も葦毛の馬にまたがりヨナタンに続いた。
 白馬を走らせてしばらくすると、ヨナタンが振り返った。
「ダビデ、どうだ? 馬はいいだろう?」
「はい! 私はロバにしか乗ったことがありませんが、馬は背が高く本当に速くて、とても清々しいです!」ダビデは碧い瞳を輝かせた。
「そうだろう。よし、もし君が王のお気に召して宮廷仕えの音楽家になれたら、君にも馬を与えるよう王にお願いしよう」
 ダビデはヨナタンの言葉に驚き遠慮したが、ヨナタンはすっかりその気だった。

  一行が20分ほど馬を走らせると、ケイワバラの花々が白く染める野の先に、高さ3mの城壁に囲まれた王宮が現れた。
「ヨナタンだ! 今、戻った!」
 ヨナタンがレバノン杉製の両開きの城門の前で叫ぶと城門が開き始めた。

 レバノン杉は成長するまでに長い年月がかかることと、大変硬く腐りにくいことから、当時大変貴重であった。現在のレバノンの国旗の中心にはレバノン杉が描かれている。

 城門が開くと2人の門番がひざまずいていた。
「お帰りなさいませ」
 ダビデは門番がひざまずいていることに目を丸くさせたが、ヨナタンと使者は門番を尻目に城門を過ぎ王宮の入口で馬を降りた。
 すると、入口の前に立つ、槍を携え、鎧をまとった二人の衛兵がヨナタンにひざまずいた。
「王子、お帰りなさいませ」
「王子様であらせられるのですか?」ダビデはすぐさまヨナタンにひざまずいた。
「これまでのご無礼をお許し下さい!」ダビデが急ぎ詫びると、ヨナタンは首を横に振った。
「ダビデ、気にしないでくれ。身分を明かさなかったのは私だ。身分を明かすとみんなかしこまってしまって話しづらいからな。ところで、君はいくつだ?」
「今年で17歳になります」
「では、私と同じ歳だ。ダビデ、同じ歳の者同士、かしこまらなくて良い。さあ、もう立つんだ」
 ヨナタンはダビデを立たせ、衛兵たちに馬を預けると、二人の侍女が待つ王宮玄関へ向かった。
ヨ ナタンは使者を下げ、侍女の一人に竪琴を王間に持って来るよう命じ、もう一人の侍女を伴い王間へ向かった。
 ヨナタンはダビデを従えて、細かい模様の織り込まれたじゅうたんが敷きつめられた長い廊下を抜け、石造りの階段を上がり一番奥の部屋の前に立った。
「王子がいらっしゃいました」
 レバノン杉の扉の前で侍女が言うと、通せ、と部屋の中から男性の低い声が聞こえた。

 侍女が扉を開けてひざまずくと、ダビデも慌ててひざまずき、開かれた王間の様子をうかがい見た。
 すると、細かい模様の織り込まれたじゅうたんが敷きつめられた大きな部屋が広がる10mほど先には、2m近い背もたれの玉座に長髪で大きな男性が掛けており、玉座の脇には金のメノラー(七枝燭台)が配されていた。
 メノラーが金であることにダビデが驚いていると、男性は立ち上がった。
「おぉ、ヨナタン」
 ダビデが近づいて来る男性を見上げると、男性は180cmを超える長身で、体格はたくましく、鼻が高く精悍な顔立ちで、長く豊かな黒髪にはわずかに白髪が混じり、ヨナタンと同じベージュの衣服にマントを羽織っており、衣服の首回りや袖口、マントのすそには刺繍が施され、革の帯を留め、革製の靴を履いているのが分かった。
「父上」ヨナタンは男性と抱き合った。
――このお方がわがイスラエルの王、サウル様か。
 私のような者が王様に直にお会いできるとは、何とありがたいことか――
 ダビデが王に謁見できたことに感動するように唇を震わせると、サウルはダビデを振り向いた。
「ヨナタン、この少年は?」
「ベツレヘムの羊飼いエッサイとその妻ナオミの息子でダビデです。
 竪琴が大変上手く歌声も素晴らしいと評判の少年です。
 このダビデの奏でる音楽を、ぜひ父上にも楽しんで頂きたく連れて参りました」
「ヨナタン、お前は優しい子だ。その心遣い、嬉しく思うぞ。アヒノアムを連れて参れ」
 サウルは侍女に命じて玉座に戻った。
 侍女は王間のすぐ隣にある王后の間に向かい、アヒノアム王后を王間に連れて来た。
 アヒノアムは、全体が刺繍であしらわれた白いドレスを着た赤く長い髪の、色白で美しいナオミと同じ年頃の女性であった。
 アヒノアムは王間に入り一礼するとサウルに尋ねた。
「あなた、今日は何か?」
「ヨナタンが私のためにと音楽家を連れて来たのだ。アヒノアムよ、良かったらお前も一緒に聞いてみないか?」
「ありがとうございます。楽しみですわ」
 アヒノアムはサウルの隣に置かれた椅子に腰を掛けた。
「早速聞かせてもらおうか?」
 サウルがヨナタンに告げると、ヨナタンは部屋の外に向かって命じた。
「竪琴を!」
 扉が開くと侍女が装飾の施されたレバノン杉製の竪琴を持って現れ、ヨナタンに竪琴を渡すと王間を後にした。
「さあ、ダビデ。音楽を奏でよ」ヨナタンはダビデに竪琴を手渡した。
「失礼いたします」ダビデは立ち上がり竪琴を受け取ると、竪琴を奏で、歌を歌い始めた。
 たちまち王間に甘く美しいテノールが響き渡った。
 サウルとアヒノアムは目を閉じてダビデの歌声に聞き入った。
 ヨナタンもその場でダビデの歌声に聞き入っていた。

 ダビデの曲が終わると王間の扉が開き、一人の少女が入って来た。
 その少女は、ダビデと同じ位の年頃で、肌は透き通るように白く、愛らしく目鼻立ちの整った顔立ちに亜麻色の長い髪で、アヒノアムと同じ全体が刺繍であしらわれた白いドレスを着ていた。
 ダビデは町では見かけたことのない少女の優美な出で立ちに目を見張った。
「今の歌声は、あなたなの?」
 少女は褐色の大きな瞳を輝かせ、可憐な声でダビデに尋ねた。
「さようでございます」ダビデは思わずひざまずいた。
「あなたはこの宮廷に雇われた音楽家?」
「いえ、音楽家ではなくベツレヘムの羊飼いです。今日、王様に音楽をお聞かせするために参りました、ダビデと申します」
「私は王の娘、ミカル」
 ミカルはサウルを振り返った。
「お父様、ぜひダビデを宮廷の音楽家に雇いましょうよ!」
「ミカル、それは王がお決めになることよ」
 アヒノアムがすかさずたしなめると、サウルは笑みを浮かべた。
「アヒノアムよ、構わぬ。私はダビデの奏でる音楽をとても気に入った。
 ダビデよ、今日から私の音楽家になって欲しい」
「ありがとうございます。喜んでお仕えいたします」
 ダビデはサウルの言葉にすぐさま深く頭を下げた。
 この日からダビデはサウル王付きの宮廷音楽家となり、王宮に小さな部屋を与えられ、その部屋に住むことになった。そして、ヨナタンからレバノン杉製の竪琴を授けられ、毎日サウルに音楽を聞かせるようになった。

 数か月が過ぎたある日、ダビデがいつものように王間でサウルに音楽を演奏していると、王間の扉の外に男性の太く低い声が響いた。
「失礼いたします!」
「アブネルか。入れ」
 王間の扉が開くと、扉の前に立つアブネルはサウルよりも背が高くたくましいサウルと同じ年頃の男性で、眼光が鋭く男らしい精悍な顔立ちで、鎧の間から鍛え抜かれた筋肉が覗いていた。
 その鎧は門番の兵士の物よりも重厚で、肩当てや腕当て、すね当てもまとっており、明らかに他の兵士の物とは異なっていた。
 アブネルは王間に入ると、兜を脱いでサウルにひざまずいた。
「恐れ入ります。南西40km先のエラの谷にペリシテ王国の軍が陣取り、この王宮に迫っております。
 使いの者の話では、ペリシテ軍は歩兵2千人、騎兵千騎の3千人の兵から成る大軍だそうです。
 わが軍は歩兵1,100人、騎兵300騎の1,400人で、敵の半数にも及びません」
 アブネルはここまで報告したところでダビデを振り返った。
「何だ、貴様は?」
「私は王様付きの音楽家でダビデと申します」
 ダビデは急ぎアブネルにひざまずいた。
「これは貴様のような者が聞く話ではない!」
 アブネルが憤るとサウルがダビデに告げた。
「この者はわが国の将軍でアブネルだ。ダビデよ、今日のところはもう下がってよい」
「失礼いたしました」ダビデは2人に詫びて王間を後にした。

 ダビデが部屋に戻りしばらく経つと、部屋に侍女が訪れて告げた。
「王は今日からしばらくの間、あなたに休暇をお与えになるそうです。王が戻るように命じられるまで故郷に戻って結構ですよ。
 帰りの馬はこの王宮の入口にいる兵士が用意していますから」
「ありがとうございます!」
 ダビデはすぐに荷作りを済ませて部屋を飛び出し、兵士の用意していた葦毛の馬に跳び乗ると、一路ベツレヘムへ馬を走らせた。
「父さん、母さんは私が急に王宮入りしたことを案じていないだろうか? 兄さんたちは元気だろうか?」
 ダビデはつぶやきながら馬を走らせた。

 やがてベツレヘムの生家に着き馬から降りると、馬がいななき、母ナオミが出てきた。
「ダビデ!」「母さん!」親子は抱き合い、久しぶりの再会を懐かしんだ。
「ダビデ、元気だった? 宮仕えは大変だったでしょう?」
「元気ですよ。王宮の皆さんは私に大変良くして下さり、私に部屋も与えて下さいました。お陰様で何の苦労や心配もありませんでしたよ」
「それは良かったわ」
 ナオミが安堵してダビデを家に迎え入れると、父エッサイがダビデの肩を抱いた。
「ダビデ、宮仕えはどうした? まさか断りもなく出て来てしまった訳ではないよな?」
「いいえ、王様が休暇を与えて下さったのです」
「そうか。王宮の皆様に御迷惑をお掛けしたりはしていないか?」
「いいえ、そのようなことはないと思います。王宮の皆様は大変良くして下さいます」
「そうか。しばらくはこちらにいられるのか?」
「はい。王様が戻るように命ぜられるまでの間、お世話になります」
「そうか。それは良かった」
「すぐに夕食にしましょう!」ナオミは嬉々として夕食の準備に取りかかった。
 しばらくして食卓に食事が並んでエッサイとダビデが席に着き、ナオミがメノラーに火を灯して席に着いたが、ダビデの3人の兄は現れなかった。
「兄さんたちはどこかへ出かけているのですか?」
 ダビデの問いに父母は表情を曇らせた。
「ダビデ、兄さんたちは戦争に行っているのだ。お前はペリシテ軍がイスラエルに攻めて来たという話を聞いていないか?
 今日兵士の方が家に来て、兄さんたちを連れて行ったんだ。軍に武器の用意はあると言っていたが、何しろ急いで連れて行かれたものだから、食料を渡してやることができなかった……。
 果たして軍に十分な食料はあるのか、戦争はもう始まっているのか、みんなは無事なのか、とても心配だ……」
 エッサイは真情を吐露した。
「明日エラの谷へ行って兄さんたちの様子を見て来ます」
 ダビデは父母を元気づけるように決すると、エッサイは緑色の目を見開いた。
「ダビデ、どうして兄さんたちがエラの谷にいると分かるんだ?」
「実は王様に音楽を奏でていたら、アブネル様という将軍様が現れて王様にご報告されている場に居合わせてしまったのです。
 ペリシテ軍はギブアから南西40km、このベツレヘムからだと西へ20kmほど行ったエラの谷に陣取り、王宮に迫っていると……」
「なりません! あなたのような少年が戦地に赴くことなど断じて許しませんよ!」
 ナオミはダビデが話し終えるのを待たずに声を荒げた。
「食事にしよう」
 エッサイは仲裁に入り、今日も無事に食事ができることへの感謝の祈りをイスラエルの神ヤーヴェに捧げた。

 翌朝、ダビデが目を覚まし、仕度を済ませると、エッサイとナオミが食卓で話をしていた。
「おはようございます。すみません、遅くなりました」ダビデが少し慌てるとナオミが振り返った。
「おはよう、ダビデ。遅くはありませんよ。さあ、掛けなさい」
 ナオミがダビデに席を勧め、ダビデが席に着くとエッサイが尋ねた。
「おはよう、夕べはよく眠れたかい?」
「はい。お陰様でとてもよく眠れました」
「そうか。では、食事にしよう」
 エッサイは朝食前の感謝の祈りを神に捧げた。
 食事を始めてしばらくすると、エッサイがダビデに尋ねた。
「ダビデ、夕べお前が言っていた、わが国がエラの谷でペリシテ軍と戦争しているという話は確かか?」
「はい。将軍様は確かにそのように王様にご報告されていました」
「どんな状況かおっしゃっていなかったか?」
「何でもわが軍の兵力に対して、敵のペリシテ軍は倍以上なのだそうです」
 それを聞いた2人は落胆した様子を見せたが、ダビデは続けた。
「まだ戦争が始まったとは限りません。私が偶然そのご報告を聞いた後、王間を下がって部屋に戻ると、王様はすぐに休暇を与えて下さいました。
 おそらく王様は、あの後戦地に赴かれたのだと思います。
 もしそうなら、おそらく昨日の夕方頃、王様はエラの谷に着かれたでしょうから、戦争が始まるとしても夜明けを待ってからになると思います。
 ただ、ペリシテ軍はわが軍の倍以上ですから、王様は戦争する前にまず話し合いをされるかも知れません」
 エッサイはしばらく黙っていたがやがて口を開いた。

「仮にお前の読みが正しかったとしても、その交渉が決裂したら戦争になるな」
「その前に兄さんたちの様子を見て来ます。
 もし私が着く前に戦争が始まっていたら、きっと馬のいななきや兵士の方々の雄叫びが聞こえるでしょうから、戦地に入らずに引き返すことは難しいことではありません」
「ダビデ、やめて!」
 ナオミはダビデを制したが、エッサイは続けた。
「ダビデ、では、もしも戦争が始まっていなくて王様が話し合われていたら、兄さんたちにせめてパンとチーズを渡してやってくれないか?」
「やめて下さい! もしダビデが食料を渡しているところで戦争が始まってしまったらどうするのですか?
 ダビデは少年な上に何の武器も持っていないのですよ!」
 ナオミが必死にたしなめると、エッサイは、そうだな、と言ってうつむいた。
「父さん、分かりました。兄さんたちに食料を渡しに行って来ます。
 母さん、私には王様からお借りしている馬があります。
 戦地のなるべく傍に馬を停めておきますので、もし運悪く戦争が始まってしまったとしても、私は馬の所まで逃げれば大丈夫です」
 ダビデは落ち込んだエッサイを見て、ナオミを説得した。
 ダビデは更に、かつて羊の放牧をしている頃、羊がライオンに襲われた時に傍に落ちている石でライオンを退治した話をしようと身を乗り出したが、そんな危険な目にも遭っているのかと母が返って心配するのではないかとためらうように身を引いた。
 3人が朝食を終え、ダビデが出発の準備を済ませると、エッサイは3つの袋に小分けにした3人分のパンとチーズを手渡した。
「少しでも危険だと思ったら、すぐに逃げてくるのだよ」
 ナオミもうなずいて心配そうにダビデを見つめた。
「兄さんたちと会えなくても、何も気に病む必要はないからね。すぐに帰って来るのよ」
「私のことは大丈夫です。兄さんたちが無事であることを確認してきます」
 ダビデは馬にまたがると、エラの谷へ馬を走らせた。

 20分もしないうちにエラの谷が見えてくると、今までに聞いたことのないような大きく太い叫び声が聞こえてきた。
「俺はこの軍の隊長ゴリアテ! ペリシテ軍最強の戦士だぁっ!
 イスラエルのクズどもぉっ! お前らクズどもの中に、俺と一騎討ちして決着を着けようという気概のある戦士はいるかぁっ?」
 ダビデはアカシアの低木に馬をつなぐと、かがみながら谷を見下ろせる場所を探した。
 そっと谷を見下ろすと、ペリシテ陣営は谷向こうに陣取り、アブネル将軍の言ったとおり、歩兵2千人ほどが黒い鎧に身を包み弓や槍と盾を携えて居並び、その奥には千騎ほどの騎兵が並んでいた。
 一方、谷の真下には天幕が張られイスラエル軍が天幕を守るように囲んでいた。
 そして、両陣営が向い合う間には身長3m近い巨大な兵士ゴリアテが黒い鎧に身を包み、仁王立ちしてイスラエル陣営に睨みを利かせていた。
 しばらく沈黙が続くと、ゴリアテは大きく太い声であざ笑った。
「いないだろうがぁ? いないなら、直ちに降伏しろぉっ!
 もしいるというなら、今すぐ俺の前に出て、俺と勝負してみせろぉっ!
 もしお前らの戦士が俺を倒すことができれば、今回は引いてやろう。
 だが、この俺が勝てばお前らは降伏し、お前らの土地と家畜は全てわが王国がもらうぞぉっ!
 なぁーに、命ばかりは助けてやろう。
 お前らクズどもはクズらしく、我々ペリシテ人の奴隷となるのだぁっ!
 ハッハッハァーッ!
 さあっ、お前らの国を守ろうという勇敢な戦士はいるかぁっ!」
 ゴリアテは降伏を迫ってきた。

「何だ、あの無礼な巨人は! あの愚弄した物言いは許せぬ!
 我々に奴隷になれだと?
 わがイスラエル軍は古より神に選ばれし民の軍だと知らぬのか!」
 ダビデは怒りをあらわに叫んだが、ふと我に返るようにつぶやいた。
「そうだ、兄さんたちにパンとチーズを渡さなければ」
 用事を思い出したダビデは、草木に身を隠しながら谷を下った。
 イスラエル陣営に着くと兵たちはみんな巨大なゴリアテに怖気づいていた。
 陣営の中には青銅の鎧をまとい、弓を携え、白馬にまたがった王子ヨナタンの姿があったが、その凛々しい姿とは裏腹に苦渋に満ちた表情を浮かべていた。
「私にあの巨人を倒すことなどできるだろうか……」
 ヨナタンはつぶやきながら名乗り出られずにいた。

 天幕の中ではサウルはアブネルと話し合っていた。
「あの巨人の言うことを全く無視して総攻撃をかけさせても、倍以上の兵力を持つペリシテ軍に勝利するのは到底難しいだろうな」
 サウルが苦渋の表情を浮かべていると、アブネルはしばらく考えてから口を開いた。
「わが軍が敵の半分の兵力しかないことも勝機を見出せない要因ですが、最大の要因はわが軍の騎兵が敵の3分の1にも満たないことです。
 騎兵は馬上の高さ2mから攻撃できますし、歩兵はせいぜい時速15kmですが、騎兵は時速60kmの馬に乗っている訳ですから、圧倒的な破壊力と機動力を誇ります。
 もしわが軍にあの巨人を倒せるような兵士がいれば1人の犠牲者も出さずにペリシテ軍を引かせることができるのですが……」
 しばらく2人が落胆していると、やがてサウルが何か思いついたように立ち上がった。
「まずはあの巨人を倒そうという兵士を募ってみるか。
 よし、見事あの巨人を倒した兵士には家族の免税とわが娘ミカルを妻に与えよう。兵士にとっては王家に入れるまたとない機会となる訳だ」
 サウルは傍に控えていた兵士を振り返った。
「急ぎ王宮に戻り、ミカルに覚悟を決めておくよう伝えよ」
 サウルは兵士に命じると天幕を出て、全兵を天幕の前に集めさせた。
「皆の者、よく聞くのだ!
 あの巨人に挑み、見事倒した勇者にはわが姫を与えよう!
 それからその勇者の家族は免税しよう!
 勇者と勇者の家族は王の家族となり、生涯にわたって何不自由ない暮らしを手に入れることができるのだ! さあ、勇者よ、出でよ!」
 サウルは兵たちに叫び、戦士を待った。
 しかし、名乗り出る兵士は現れなかった。

 歩兵たちの中から兄たちを探していたダビデは王のお触れを聞き、傍にいる兵士に尋ねた。
「あのお触れは本当ですか? 家族を生涯養うことができるのですか?」
 ダビデが傍にいた兵士に尋ねると、兵士は苦笑した。
「もちろん本当だろう。あの巨人を倒せばな。
 ところで、少年、お前はここで何をしているんだ?
 ひょっとして君はわがイスラエルのためにあの巨人を倒しに来たメシアじゃないだろうね?」
 兵士がおどけると、周りにいた兵士たちも笑い出した。
 その様子に気づいたダビデの3人の兄がダビデに駆け寄った。
「ダビデ! 何をしているんだ!
 ここはお前みたいな子どもが来る場所ではないぞ!
 大体お前は、鎧はおろか何も武器を持っていないじゃないか!」
 長兄エリアブが激怒した。
「ご心配には及びません。私は父さんに頼まれたこのパンとチーズを兄さんたちに持って来ただけです」ダビデは3つの袋を兄たちに手渡した。
「これで私の用事は済みました。父さんと母さんに兄さんたちがご無事であることを伝えに帰ります」ダビデは兄たちの前を去って行った。

 ダビデは陣営の中をしばらく歩いたが、次第にダビデの目にたとえようのない怒りが込み上げていった。
 兵たちの隙間から覗くニヤニヤしているゴリアテの姿がダビデの瞳に映ると、いよいよ我慢ができないとばかりに、王の天幕へ駆け出して行った。
 ダビデは天幕の前に立っていた衛兵に王の謁見を求めた。
「私は王様の宮廷音楽家でダビデと申します。
 王様にどうしてもお伝えしたいことがあり、やって参りました。
 どうか王様に一目お会いすることはできませんでしょうか?」
 衛兵は妙な顔をしながらも天幕へ入って行き、しばらくすると怪訝そうな顔で戻って来た。
「王はお前に会われるそうだ。入れ」
 ダビデは衛兵に一礼し天幕に入って行くと、奥にサウルとアブネルがいた。
 ひざまずくと、サウルは妙な面持ちで尋ねた。
「ダビデ、一体何をしにきたのだ? この戦場で私の心を癒してくれるとでもいうのか?」
「私がゴリアテを倒してご覧に入れます」

 ダビデが願い出ると2人は驚きの表情を隠せなかったが、やがてサウルが口を開いた。
「ダビデよ、お前の勇敢さは認めよう。だが、お前は兵士ではない。少年だ。音楽を優美に奏でることができるだけの羊飼いの少年だ。しかし、奴は少年の頃から兵士だ。
 それにあの体格を見たか? お前に倒すことなどできぬ。もう下がるのだ」
しかし、ダビデは続けた。
「王様、どうかお待ち下さい! 仰せのとおり私は羊飼いです。
 羊たちを放牧していると時折羊たちがライオンに襲われることがあります。そのライオンを私は一人で倒してきました。
 王様に初めて謁見したあの日も2頭のライオンを倒しました。
 これは私のような者にも神は分け隔てなくご加護をお与えになられるからだと信じています。これは戯れ言ではありません。
 どうか私にあの巨人を討つ機会をお与え下さいませ!」
 ダビデは再度ゴリアテの討伐を具申した。
 サウルはしばらく黙っていたが、やがて何か思いついたようにダビデを見つめた。
「よし、分かった、ダビデ。ただし、敵が一騎討ちを申し込んでいる以上、お前が敗れそうになってもお前を救うことはできぬぞ」
「ありがとうございます!」
 ダビデは立ち上がり、すぐさま天幕を出て真っ直ぐゴリアテの待つ戦場へ向かった。
「本当によろしいのですか?」アブネルは苛立たし気に尋ねた。
「あの少年はわが軍に僅かながら猶予を与えてくれた。
 あの少年が巨人に殺された瞬間、わが軍は敵の一瞬の隙を突き、全軍で敵陣になだれ込む! 即刻準備するのだ!」
「ハッ!」
 アブネルはすぐさま天幕を出て、体長2mを超える黒馬にまたがり、全軍に王の命令を飛ばした。

「少年があの巨人に勝負を挑んだだと? 確かか!」
 王子の天幕で兵から王の命令を聞いたヨナタンは、天幕の外へ飛び出した。
 すると、金髪の少年が地面を見つめながらゴリアテに向かって真っ直ぐ歩く姿が映った。
「ダ、ダビデじゃないか!」
 ヨナタンは食い入るようにその姿を見つめた。
 ダビデは歩きながら地面を見つめ、石を選んでいた。
 手の平に収まるほどの石を二つと拳ほどの岩を一つ拾い、衣服の中にしまうと、顔を上げてゴリアテに向かって真っ直ぐ歩き始めた。

 ゴリアテは、自分を真っ直ぐ見つめて向かって来る色白で金髪の美しい少年に気づいた。
「おいっ! そこの少女のような少年! 何をしに来たんだぁ?
 ここは戦場だぁっ! さっさと逃げないと取って食ってしまうぞぉっ!」
 ゴリアテは大笑いした。
「私はイスラエルのダビデだ! ゴリアテ! 私がお前を倒しに来たイスラエルの戦士だ!」
 テノールがエラの谷に響くと、ペリシテ陣営の兵士たちは全員あっけに取られた。
 すると、ゴリアテはペリシテ陣営を振り返りニヤついた。
「これは、これは、命知らずな少年がやって来たぞぉ。
 イスラエル王は気でも触れたかなぁ?」
 ゴリアテがおどけると、兵たちはみんな大笑いした。
 それでもダビデは一切速度を落とすことなく、真っ直ぐゴリアテに向かった。
 ゴリアテはそんなダビデを見て目を丸くした。
「少年、一つだけ聞くが、お前は正気か?」
 ダビデは歩みを止めずにゴリアテに向かって叫んだ。
「よく聞け、巨人!
 お前が奴隷になれと言っているわがイスラエルの民は、今から3百年前、預言者モーゼ様が当時エジプト王朝で奴隷にされていたわが民を率いて出エジプトを果たし、霊峰シナイ山でわが神ヤーヴェと契約を結んだ、神に選ばれし民だ!
 お前がいかに大きく強くとも、われら生ける神の軍を敗ることはできん!」
 ゴリアテはダビデの威風堂々とした態度に目をむいた。
「その講釈は俺様にたれているのか? 小僧っ!」
「そうだ! これから天に召されるお前へのたむけだ! 知れ、巨人! 力だけが雌雄を決するものではないとな!」
 ダビデはゴリアテに向かって走り出した。

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