
『ていねいさ』の形をした馴れ馴れしさが蔓延するインターネットちゃんへ(Ado氏の発言について昼頃追記あり)
追記:ここで引用したAdoの投稿についての苦言に対して、「本人に対して送るのがダメってAdoは言ってるんでしょ?」と擁護している人たちがたくさんいることを知りました。
詳しくは記事下部に追記しますが、発言の中で彼女は思想の自由は認めていても言論の自由は認めていませんよ。
文章をお読みください。
拝啓 もうそろきみはバレンタインチョコの広告まみれになる頃でしょうか。わたしはあまり元気がないけどきちんとお話しをし続けたいふしぎな季節の中にいます。
さて、最近のきみに対して、すごく思ってることがあります。
『敬称を略さない』という距離
ここ何年も、でしょうか。
『公人(ある種の)への言及でも名義にさん付けしないといけない』みたいな主張をする子たちが増殖していますよね。
先日そのことについて志らくという方のツイートが伸びていました。
松本人志はさん付けで八代亜紀は呼び捨てはおかしいという指摘がちょこちょこ見られる。
— 志らく (@shiraku666) January 10, 2024
間違っていません。
スターは敬称略が礼儀。
石原裕次郎さんとは言わない。石原裕次郎、あるいは裕次郎。
大谷翔平を取り上げる時も大谷翔平さんとは言わないでしょ。
知り合いはさん付け。…
わたしもこちらに概ね同感です。
わたしは『さん付けしろ』っていうあれが本当に好きではありません。
わたしの場合、さん付けしてもそれはそれでまあまあ、くらいのなあなあさが好きですが。
わたしは『さん付け“しなければならない”』までいく考えを、とっっっっっっても馴れ馴れしいなと思っています。
だけど『さん付けしろ』は蔓延しています。
何故かというと、『さん付け』という馴れ馴れしさは『ていねいさ』の形を取っていて、無難に見えるからです。
『エゴサを前提に配慮を要求される』演者との距離
それから、またツイートの件ですが、昨日Adoという方のツイートを見ました。
今度は嫌な気持ちになったツイートです。
コラボに対してマイナス意見を言ってる方やそれに賛同してる方々へ
— Ado (@ado1024imokenp) January 25, 2024
私は私の好きな方や尊敬してる方とコラボさせていただいています。
それに対してマイナスの意見を持つのも構いません。…
わたしはこのAdoという演者さんの発言を、とっても馴れ馴れしいと思いました。
これは『コラボした相手を悪く言う自分のファン』に対してのツイートです。
わたしはこの方の主張がもしも
「コラボ相手のことを悪く言うファンがいっぱいついてる状態はブランディングの邪魔だから黙ってくれ」という利益のための主張だったり
「個人的にマジで嫌いすぎてブロックしたしマジ来てほしくない」という自分の感情の主張だったりしたら、何とも思いませんでした。
(流石に言い過ぎなので訴えました、もそうかも)
しかし、実際のこの方が言っているのは「私の気持ちに配慮しろ。従え。私たちは当然インターネットを探し回るが、見つかるところにマイナス意見を書くな」ということです。
まず一に、これは言論を封殺すると言うことの重さがわかっていないことばです。なのでこれだけでもロックバンドのわたしはブチギレ祭りです。
二に、「リプライでもコメント欄でも何でもない場所でも関係ない、マイナス意見を書くな」「私の気持ちに付き合え」ってクソ馴れ馴れしいです。
ファンはおともだちじゃないです。
演者とファンは、お互い、『お気持ち』に付き合わなくてはいけない義理はない距離感のはずです。
(勿論、付き合ってあげようかなと思うのも自由、付き合ってよぅと言ってみるのもきっと自由でしょう。強制力を信じなければ)
なのに、上記のツイートを発言した演者さんがいて、それを正しいを引き立ててしまう人たちがいる。
何故? っていうと、やっぱりこれも『批判をパブリックな場でしない』というのは『ていねいさ』(あるいは無難さ)の形を取っているからです。
「私に見せようと書いたものじゃなくても勝手に探して読むよ」「だから配慮しろ」なんて、勝手極まりない話です。
「公式ハッシュタグつけないでね」でも「コメント欄がそれで埋まると悲しいから場所遠慮して頼む><」でもないんですよ?
見るかもしれないから書かないで言わないで、なんて、おともだちへの配慮です。
ねえ、インターネットちゃん、きみいつからそんなになっちゃったんですか? やっぱりTwitterが流行りすぎちゃったんでしょうか。エゴサして当然という心理の当然がいつのまにか常識までスライドしたせいでしょうか。
それともきみが速すぎて、ヒトとヒトとの距離を縮めすぎてしまったのでしょうか。
「愛する【あなた】と他人でいたいよ」
インターネットちゃん、わたしは大好きな人たちと他人でいたいです。
愛している芸術屋さんはたくさんいるけど、ちゃんと他人でいたいです。
数少ない自分のファンを愛しているけど、ちゃんと他人でいたいです。
だって、自由でいたいし、自由でいてほしいから。
だからもう少し、『ていねいさ』の形をした馴れ馴れしさを自覚する人が増えたらいいなと思っています。
それでも馴れ馴れしくしたい人は馴れ馴れしくしたらいいと思うけど、正しさみたいな顔で蔓延しているのは、やっぱり違うと思うのです。
では、そろそろ筆を置きます。
お互い変わってしまうし変われないけど、季節に壊されないように気をつけて存在をやっていきましょうね。 敬具
令和六年 一月六日
片手羽いえなより、愛をこめて。
ということで追記の続きです。手紙だけで終わりたかったけど書くです。
いいですか? 確かに文面の途中までであれば、どうとでも取れると言い張れる範囲でした。
しかしAdoは
そしてご意見やご要望、改善していただきたい点がある方々はXで発信するのではなく、こちらに送ってください。
と書いてURLを貼っています。
「Xで送ってくるのではなく」じゃなく、「発信するのではなく」です。
これが言論をしばろうとする発言でなくてなんだと言うのですか。
なんでもかんでもいい方にいい方に取って心の平穏を保てばよいというものでもないのですよ。