東京の広大さを思う-恩田陸『ドミノ』読了感想と書き散らし-
怒涛であった。300ページを駆け抜けるのに十分な時間を取って良かった、と心底思った。細切れに読むのは勿体無いとすら感じる。
『ドミノ』は、それぞれの思惑を胸に抱え東京駅に集う28名が複雑に絡み合い、大騒動を巻き起こすパニックコメディである。幕引きはあまりにも忙しなく、この作品が「ドミノ」と名付けられた理由は明白であろう。
多すぎる登場人物に辟易したのも束の間、何となく記憶に残る名前と強烈に記憶に刻まれる登場人物たちの状況に、あっという間に引き込まれた。人の名前が覚えられない人間でも、ここまで記憶することができるのだな……と自分を褒め称えることにした。嘘です。ただただ活字と描写の為せる技である。
登場人物たちは東京駅に集う。残念ながら私が東京駅を歩いた回数は10回余りであり、しかもそのうちの半分以上は両親の後ろをノコノコと着いていったに過ぎないため、東京駅の地理は全く分からない。東京駅という場所に明るくあればもっと臨場感溢れる読書になったのではないだろうか。というか東京駅って当時から赤レンガだったんですね。物心はとっくに付いて、小生意気なことをずっと考えていたような時期に鮮やかな赤レンガ造りになったようなイメージであったため、単純に驚いた。全く意図されないであろう驚きである。無知を恥じながら「東京駅 赤レンガ 歴史」と打ち込む。勉強勉強。
東京駅については分からないが、東京について分かることはある。
東京は大きい。
当たり前であると思うだろう。ただ、本当に東京は圧倒されるほど大きいのだ。自分が田舎に住んでいるからか、景観条例のある地域に馴染みがあるからかは分からない。目視何階建てか分かり得ないほどビルが大きく、何をそんなに売る物があるのかと呆れるほど建物の空間も大きい。更に、何とそこらへんに立っている木まで、私は樹齢100年ですと言わんばかりに大きい。うちの地元の方が絶対に緑が沢山あるのに。そんな大きい東京に一人放り出されてみると、自分という存在はなんとちっぽけなのだろうかと思う。この雑踏に歩く私は有象無象のただ1人であり、何者でもない。それを嫌でも認識させられる。
きっと東京に住んでいる人はそれを理解した上で生きている強い人なのだろうなと、ラフォーレ原宿の前で突然そんなことを思い、途端に家に帰りたくなったことを強く覚えている。実際、そのままJRの駅構内に戻り帰路に付いた。脚がやけに痛かった。
作中に登場する東京駅は現実と同じように大きく、人間たちはドミノの1つのようにちっぽけな雑踏の欠片である。だが、ちっぽけで良いのかもしれない、と思った。それがドミノみたいに大きな出来事を起こすかもしれないし、何も起こさないかもしれないけれど、人間1人の行動の質量は変わらない(私と違って特殊な行動をしている人ばかりではあったが)。まあ、それでもいいじゃないか、と何となく思った。
次回東京に行く際は、雑踏の一部である自分を楽しみながら歩くことができるかもしれない、と思わせる1冊であった。帰りたくならなければ良いなあ。