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感想① 250207
感想を書いているうちに夜が来て、眠って、起きて続きを書こうとしたら大半のことを忘れていて、書こうとしていた熱量も忘れていて、いまいちふるわず初めから書き直す のくりかえし。本当なら、その繰り返しで出来上がったものを載せるべきだが、今は、書けたところまででいいから出した方がいいと思っている時期なので、思ったことがあれば忘れる前にとりあえず出しておくようにします。
○
何か思ったということをわざわざ書いておきたい、と思ったことを書いていくだけなので、触れていないからといって何も思わなかったということではないです。たとえば、同人誌で、収録されている全員の作品について均等に触れるようなことはしませんが、ここに書かなかったものについても色々思うことはあります。好きだったものは好きだったものとして別で記録していて、ここではまた別に書きたいことを書いているだけなので、そこはご理解ください(直で聞いてくれたら、あなたの作品についてどう思ったか直で応えます)。
加えて、以下敬体と常体がばらばらです。書くときの気分によって変わります。気になるかと思いますがあまり気にしないでください。
○「文藝蟻酸 ギギ」vol.2(2024.12)
・本全体:コデックス装カッコいい! 本自体の仕上がりが素晴らしくて、こういう本の中に収録される文字は幸福だろうなと思う。
この世でいちばんはじめは不二クラ しゅうりょうすることカインとあびる優/常本道子「ギギタリス」
この歌が連想ゲームだとして、「短歌で連想ゲームをするな」という批判が考えられるとして、「でも短歌はそもそも連想ゲームだ」という反論を今すぐにでもしてきそうな顔をしている。
私個人としては、常本さんの作風は、ビンゴ大会で配られるシートみたいなものをイメージしていて、いつ見てもランダムで不安を煽るもののように感じている。あのシートはビンゴ大会のために作られたものであり、ビンゴ大会でのみ機能する。もし、ビンゴという文脈がすっぽり抜けてしまえば、あの紙はただランダムな数字が並んでいるだけで、しかも一枚として同じ配列のものが無いという奇妙なまでに整然とした居心地の悪い物になる。
短歌と言われて出されているからまだぎりぎり読めるけど、短歌あるいは一行詩という文脈が欠けたら、本当に意味の分からない文字列だなと感動さえする。
そういう意味で、「カインとあびる優」を人為で創出できただけで価値があるし、その二つを持ってこれる言葉遊びは相当に上等だと思う。言葉のビンゴをしたとして、カインとあびる優で列が揃ったら嬉しいだろうなあと思う。この世の一番初め→アダムとイヴ→カイン→アベル→あびる優 とするとその次は、自分だったら瀬戸朝香かなあ、と想像する(アベルが殺された後に生まれた、アダムとイヴの第3子(アベル&カインの弟)の名前が''セト'')。
私の知識だけでは、「不二クラ」が読み切れなかったので、誰かほかの方の読みも欲しいところ。調べると郷ひろみ&樹木希林の「林檎殺人事件」(作詞:阿久悠)という歌で、「アダムとイブが林檎を食べてから フニフニフニフニ 跡をたたない」という歌詞があるので、フニはこれでしょうか。このフニから、フニクリフニクラのフリクラが引っ張ってこられたのか、ちょっと分かりません。(ついでに調べたら、フニクリ・フニクラって、1880年の登山電車のコマーシャルソングで、世界初のcmと呼ばれることもあるらしいです。知らなかった)
でも多分、(決めつけてしまうのは良くないですが、)一読者としては、そこまで謎解きみたいに全部調べて読みを特定したとしても、別にこの歌のためにはならないような気がします。ミステリやクイズみたいに、解答に向けて作られた謎ではないからです。この連想を追いかけることで得られるのは、作者の思考回路の一端にすぎない、という気がします。その上で、「カインとあびる優」は流石に魅力的なので、そこに至るまでの作者の頭のルートを一回たどってみたいなーと思って今回はちょっと調べたりしました。目の前の短歌に対してどういう態度で臨むかを先に考えさせられるような、挑発的な(本人にとってはごく自然に作られているのかもしれませんが)作風は、おもしろくて良いなと思います。
あと、「ギギタリス」という連作タイトルは、花のdigitalis+同人誌名「ギギ」だと予想していますが、ジギタリスのあの毒々しい赤紫がぴったりの連作だなと思いました。
どこまでも約束を確かめているクローゼットに閉じ込められて/とりばけい「霞」
催眠術をかけられた子とかけた子がすずしく暮らす白壁の家/湯島はじめ「hypno」
この二首はセットみたいに感じて良かったです。どっちも怖いし、どっちも気取ってなくて好きでした。「どこまでも」とか、「すずしく暮らす」とかの、さりげない外し方(もっとホラー成分を濃くすることは簡単だけど、あえて薄く書くことで逆に影を濃くするような書き方)が○。
あと、受動態の被害の程度が映えていて面白いなと思いました。催眠術の歌だと、〈かけた子とかけられた子が〉に位置を変えると、また違って見えます。韻律との兼ね合いもあると思うけど、そもそも「催眠術」という言葉が、「かける」よりも「かけられる」の方が相性がいいのかもしれません。宝くじが、「あたる」より「あたらない」の方が単語の距離が近いみたいに。
春が来ることの怖さを言いながらミルクで曇るカモミール・ティー/桜庭紀子「カモミール・ティー」
私がミルクティーが好きなのもあり真っ先に目に留まりましたが、流石に、春-怖さ-ミルクで曇る の接続は華麗すぎて、名歌だと思います。要素自体は癖がほとんどなくて見過ごしそうになりますが、「ミルクで曇る」の表現の上手さと、「ことの」「言いながら」のわざとっぽい冗長な伸ばし感、「カモミール・ティー」の中黒の感じ、そしてこれを逃さずタイトルにするところに、作者の丁寧な魔術・底知れない魔力 を感じました。
ただ一点、「言いながら」だけは少しだけ気になりました。''私''が、聞き手と一緒に春が来ることの怖さについて話し合っていて、その手許でミルクティーはミルク色に濁っていくという光景を想像しましたが、それで合っているのかどうか。連作では''私''が思ったり喋ったりして続いているので、''私''が動作主であることは間違いないと思いますが、わざわざ「言いながら」であるということは、聞き手として誰かがそこにいるという情報が大事だったのか、それを声に出して話し合っているという状況を説明するのが大事だったのか。
連作内の他の歌〈永遠に会わない君の赤ちゃんの名前を何個も思いうかべる〉みたいに、「春が来ることの怖さを思いつつ」みたいな接続も可能だったわけで。春が来る怖さって、けっこう内的な思考というか、百人いたら百人頷くようなことではないと思うので、それをわざわざ誰かに言っているという状況にすることが、少し不思議でした。これが意図されているのであれば、そんな発言が登場しても何もおかしくないような会話だったということで、さらにその場の「ミルクで曇る」感が増すなあと思いました。
あと、「言う」の矢印の先が示されていないので、まだふつうに、カモミール・ティーの擬人化っていうラインも残っていると思います。上の句で軽く切れて下の句に移っている(私たちの会話/ミルクティー)のではなく、やんわり繋がっているという読み(ミルクティーが春が来る怖さを人間みたいに声に出している)。私個人としては、ミルクティーの思考になるとかなりファンタジーに飛ぶので、「春が来ることの怖さ」の体感・リアリティを優先すると切れとして読みたい気がします。
ということで、この歌は、繊細な感覚をわざわざ「言」っているというこの状況が、私にとっては少し怖く思えて、ミルクティーを綺麗に書かない書きぶりと混ざって面白い歌だなと思いました。仮にこれが私の歌だったら「言いながら」を推敲しますが、この歌の個性は、きっと「言いながら」にしたことにあると思います。だから、私はそこを尊重して読みたいなと、思っています。
○吉田衣織奈『角虫』(私家版、2024.10)
・笹井宏之賞の候補に並んでいるのを見て、だんとつに良いと思ったので、早速買って読みました。候補になっていた「豆苗の写真・じゃんけんのルール」も見ましたが、これで受賞しないのか……という気持ちでした。(繭、体感、現象、''ぶいちゃん''とちょっと連作上に走っているラインが多くて読む上で軸を決めづらかったのが若干気になったくらいでした。まあこれはきっと50が窮屈だっただけで、それぞれ10ずつ補強して、100とかに規模を大きくすれば上手くまとまるんだろうなーと思いました。)
・「分岐する連作」の試み、他にやっている人はいるんでしょうか、わりと新しいことのように感じました。良かったです。
近づいて初めて絵の具の凹凸に気付くみたいな汗が浮き出る
すごい比喩。絵の具の凹凸みたいに、じゃなくて、一連の動作を丸ごと比喩に持っていく腕力。強引といえば強引、アクロバティックといえばアクロバティック。「浮き出る」が絵の具寄りの言葉なのは、作者の親切心という感じ。(これくらい比喩がすごければ、私だったら「汗が流れる」「汗が出てくる」くらいナチュラルにして一首内のバランスが取ろうとするけど、そうはせず最後まで手を抜かずに書きまくるのが、作者の性格を感じる)
しっとりとした指の腹がうれしくて何度も乾いた唇に当てた
ねむ樹にも載ってましたが、これが連作の最終歌だったとは。かなりいいラストだと思いました。「何度も」がちゃんと「うれし」そうなのが良いのと、その程度のささやかなうれしさに寄り添うような「しっとり」という措辞がちょうど良くて、歌として完成されていると思います。鼻、歯、肌理みたいな単語はでてきていたものの、「指の腹」という身体の部位を表す単語lv.2 が最後に出現するのも、かっこいい締め方だと思いました。
○「ひかってみえる」(2024.12)
鯉派の同人誌。ちょうどいいタイトルで、これを読んで以降、何かが光って見えたとき、一回この同人誌を思い出さずにはいられないみたいな、ちょっとやりづらい状況になっています。ふつうに「ひかってみえる」ってもう言えなくなった。私が昔から思っている、いいタイトルやいいフレーズによって単語が先に誰かに盗られているという感覚(ex.「皇帝ペンギン」は塚本邦雄、「サバンナ」は穂村弘みたいな)でいうと、「ひかってみえる」はもう盗られました。それくらい、良いタイトルだと思います。
ガムボール転がすような享楽が私をいずれ柊の花/工藤吹「陶酔」
「私をいずれ」ときたら、「〜にする」が来そうな所を、名詞がぶつけられて終了するという、急停止が面白い歌だなと思います。
細かく言うと、ボール→転がす のイメージのつながりと、「ような」の柔らかい比喩のつなげ方まではとても甘い感じで、「享楽」という二字熟語で急にちょっと締めた感じがある。上の句のこの意識されたスピード感のあと、「私をいずれ」と明確に次に繋げるパスが入ったのに、急にソフラン(音ゲー用語で速度変化の意味)がかかって「柊の花」で停止する。
歌は停止したのに、頭はまだ「私をいずれ」の先を想像しているから、柊の花の映像を想像しながらも、意味の先を追いかけていて、このずれによって生まれる「私をいずれ柊の花(のようにする)」という不思議な重なりを錯視として味わうみたいな、あんまりない経験が出来ました。(本当は、享楽が私をいずれ''だめにするだろう''/柊の花 みたいな省略があるとして読むのが自然?)
ちょっと違いますが、〈手をつけて海のつめたき桜かな/岸本尚毅『舜』〉を思い出しました。見た目上は語が繋がっているのに、景色は飛んでいる、この解決として景色と語をむりやりねじって想像させるみたいな手法。
テクニカルさについてばかり言及してしまいましたが、ふつうに、「ガムボール転がすような享楽」が実感あっていいと思いました。''柊''は編者の藤井柊太さんの名前への目配せと取ることもできますね。
いちょうの葉は大勢にして中庭にいちょうの木はいっぽん植わるのみ/篠原治哉「つなぐ四月の橋の上で」
''植わる''ってなんか勝手に方言だと思ってました。調べると標準語らしい。
認識の順番通りに書いたのかと思いきや、それくらい大きな銀杏の木が一本だけあるなら、先にそっちが目に入っている方が自然だと思うので、その全景を一回把握したあとで書き始めた感じがします。
「大勢にして」とか「中庭に」みたいな振りかぶった表現と、「いちょう」「いっぽん」のあざといくらいの仮名の開き方が、一層ぽつんとした木を想像させていいですね。私は読んで笑っちゃいましたが(なんか銀杏が寂しそうで)、別に光景のどの要素も別に本当は面白くはないわけなので、この妙な語り口がいいなと思いました。
スーパーのお寿司をあえて指でいく アンテナの向こうに湧いてくる雲/遠野瑞希「フレンズ」
スーパーのお寿司を指で行くのおもろいなーと思いました。「あえて」は言い過ぎな気もするけど。私はスーパーのお寿司は家のなかでしか食べたこと無かったから、「アンテナ」「雲」で急に部屋の外の話になったと思って、どんな視点???と面白かったです。(花見とかで外で食べている?)
ちなみに、下の句は私だったら「湧いている」雲にすると思います。「あえて」っていう自分の話が出てきているので、バランスをとって外の話は描写に徹するかなと。でもここが「湧いてくる」なので、湧き上がるところ→これからもっと湧き上がってくるという時間経過とか、湧き上がってくるぞ〜っていう自分の中の高まりとの重ね合わせもあるのかなと思います。だから、私には無いそのわくわく感が、歌全体にあって、楽しそうで何より と思いました。
完全犯罪 完全犯罪 夜中に目を覚ますとこころは雪まみれだった 完全犯罪/野村日魚子「キュアー」
完全犯罪が3つ。犯罪と雪は、あんまり親和性が無いように感じますが、完全犯罪と雪は、めちゃくちゃ近く感じるのは不思議なことです。雪によるクローズド・サークルものが多いからなのか、雪の足跡とかで犯人消失みたいなミステリが多いからなのか。
この歌は「こころ」が「雪まみれ」なので、実際にその部屋の外で雪であるかどうかは関係ないのが面白いと思いました。夏の話かもしれないし。犯人が気づかれないまま終わること、犯行そのもの自体にも気づかれないことが完全犯罪になるとすれば、内的な発話ってすべて完全犯罪の一種だなと思わされるような、静かな歌でひりひりしました。
行きなさい 岩か島かで揉めるのは国とかにまかせといたらいいの/平出奔「大学で」
風刺であることはひと目で分かるとして、この投げやり感の強調がキレキレで良いと思いました。一番効いているのは、「国とかに」の部分。国に、ではなく、国とかに。
小学生のときの社会で、地図帳の端っこに紹介されていた沖ノ鳥島の写真を見て思わず笑ってしまった記憶を思い出した。こんなの、まるで…… みたいな。
「行きなさい」と来れば、こっちの敵は''私が''倒しておくから(ユーハバッハに一護を送るときの護廷十三隊みたいな)、と続くのかなあと思うところが、私は関係ない感じ。「私にまかせといたらいいの」で音数ぴったりのところを、「国とかに」で字余りしてでも言う感じも、攻撃力全振りでいいなと思います。
この歌を、「岩」「島」「国」「まかせといたらいいの」あたりで、ざっくり風刺と認定して、そうだよねーと思って、次のページに行こうとする人の方が多いように思いますが、私は一回ここで読むのを止めて、翌日からまた次のページで読み始めました。思っている以上に、これは怒っている気がする。だから、私も、思っている以上に、感情移入した方がいいなと思いました。あんまりそういうことしないんですが、それくらいパワーのある歌だと判定しました。
壁紙 一部分がはがれてる 理屈抜きで生きるのもたいへんさ/安田茜「できない」
これは、「も」の一文字につられて、メモしました。これが「理屈抜きで生きるのはたいへんさ」だったら、何も考えないのも大変だから理屈も大事にしながらやっていきましょう、になる。「生きるのも」ってことは、主体/人は理屈抜きで生きるときがしばしばあって、(それを他人から楽そうだと判定されることがあったりして、)でも理屈抜きも楽じゃないよ、という発言になる。一文字で大違い。
自分の生き方に対して誰かが何かを言ってきている(ように感じる)という前提があってこの歌が出来ていて、そこが苦しいなと思いました。壁紙が剥がれているのも、描写としては「はがれてる」になるけど、それを剥がそうとした人とか、勝手に剥がれていく要因があったからそうなった訳で。
忘れてはいけない目線 のことを思い出させてくれる歌として、定期的に振り返りたい歌のひとつです。
ぶりぶりに腫れてる喉を携帯のライトで照らす きも のどちんこ/吉田衣織奈「のどちんこ見る」
爆笑しました。スピード感。
この「ぶりぶり」って、見る前から分かってた腫れの程度の実感のことなのか、実際に見ながら「こりゃぶりぶりに腫れてるな」と思って先頭に来たのか、どっちともいえない(ほぼ同時にそれが起きている(ぶりぶり腫れていそうな気がして、見てみたらほんとにぶりぶり腫れている))のが面白い。
あと、ライトで照らす→のどちんこ→きも が順番としては妥当だと思うんですが(照らされたものを見て、きもいと思うわけだから)、先に「きも」が来て、そのあと光が当てられている「のどちんこ」が残るのも、へんてこでおもしろく。感情が光景を追い越すタイプの作者だとしたら、「携帯のライトで照らす」とかいう文字数をたっぷり使った現実の行為への説明が、感情(「きも」)へのフリでしかなくてそれも面白い。
回したら出かたの変わるシャワーヘッドを理解してからは洗うだけ/門坂崚「殴る父」
これ悲しいですね。悲しいあるある。シャワーヘッドとかいう一撃で生活の一部が楽しくきめこまやかになる嬉しいグッズも、しばらく使っていると当たり前になって感興がなくなるという。デザインから機能に移っていく様。
こういう「理解」が発生したら、遊園地とか、ギャンブルとか、もっと言うと地球上での生活とか、楽しめなくないですか? 逆に冷めてできるのかもしれないけど。さりげないワンシーンで、生活全てのうら悲しさを言い当てたような、鋭い歌だと思いました。
あと地味に、最後の「洗うだけ」の言い方が上手いと思います。「シャワーヘッド」を理解したのなら、そのまま行くと「(シャワーヘッドを)洗う(のに使う)だけ」となるはずだから、「(シャワーヘッドを)使うだけ」になる。でもそうなっていないということは、この歌は「理解してからは」でシャワーヘッドの話は軽く切れていて、「(私はそんな機能で楽しむことはやめて、それからの入浴はただ体を)洗うだけ(に戻る)」に変わっている、この ”シャワーヘッド→入浴そのもの” へのビハインドパスが爽やかに決まっていて、理解はできるけど微妙に操作の圧がかかっているのが心地よかったです。
・執筆者紹介、多幸感ありました。私もこうして誰かに書かれたいし、私もこうして誰かについて書きたい。
○イルカーン「海風そばにいてさようなら」(2024.12)
・これは超個人的な話ですが、イルカーンは、数年前うたとポルスカの企画で温さん・初谷さんと歌会をしたあとにお二人が組んで始められたので、僕だけ取り残されたような感覚が謎に少しだけありました。このまえの短歌研究のユニット回(2025.1-2)で、私は第三滑走路として・お二人はイルカーンとして載って居合わせたので、ようやくそれも気持ちとして清算できた気がします(別に蟠りとかじゃないので「清算」は違うかもしれませんが)。
それにしても、いつの間にか始まっていたものが、こんな歌数になるまでやっていたとは時間の流れも早いな と思った次第でした。応援しております。
・どっち作かはもう考えないで読むようにしています。他の人たちがどういう姿勢で合作に向き合っているのかはちょっと気になるところです。
中学生 苗字で呼ばれるようになったら きみにお天気が続いたら
ポイント加算式で、良いなと思いました。中学生というお題に対して、「苗字で呼ばれる」の回答が1pt、「名字」ではなく「苗字」、「お天気」の「お」でそれぞれ1pt、一字あけと「たら」の連続の分かりやすい構造で1ptの4ポイントで上がり、というイメージ。
ベタなことを言えない感じ、照れ隠しみたいな感じが、中学生っぽくてぴったり。
なんかでも、この歌は、恋とか青春っぽい方向で読むこともできるけど、わりと悲しい方にも読める気がする。小学校までは名前で呼ばれてて、中学に入った途端苗字で呼ばれるみたいな、個が急にもてはやされなくなる、自分の個の価値が一気に下がって感じられるあれを言っているんだとしたら、「お天気が続いたら」という言い方は皮肉っぽく悲しく見えてくる。大人になった今、あのころの自分に対して、わざと明るくそう言っている、みたいな。
「お天気」って言葉は、そういうどっちにも転がりそうな底抜けな単語で、ちょうどいいものを拾ってきたなと思います。
感情は黄金、かくあれかしと もう夜だから寝なきゃいけない
これは素晴らしい歌だと思いました。
初句のテンションで行けば、文語っぽい、美に重きを置いた言い方で続いていきそうなものを(名前だけ挙げるのは失礼ですが、服部真里子・大森静佳・井上法子(敬称略)あたりの文体で書かれていきそうな初句)、「かくあれかしと」という、ふだん使わないような言葉で、でも確かにそう思っているという気持ちを残しながら、「寝なきゃいけない」というイルカーンっぽい口語・日常にスライドしていくのが、新しく思えました。
イルカーンが「感情は黄金」と言おうとすればこのような手続きで実現され、「かくあれかし」というフレーズが蝶番になるということにわりと感動して、見事に自分たちのフィールドで言いたいことを実現していてかっこいいなと思いました。
''神のみぞ知る''とか、''驚くことなかれ''とか、文語の形のままフレーズとして現代に残っているものがいくつかありますが、「かくあれかし」って本当にイルカーンが射止めるべき単語って感じがしますね。
寝て覚めたら、感情は黄金でありたいと思ったことすら忘れているのかも。もしかしたら、主体はあまり自覚的では無いけど、もうずっと人の感情というものは金ではあるのかもしれない、とも。そういう、一瞬真理に行きかける想像が、眠いころにぼんやり浮かんでくる感じも、リアルでいいなと思いました。考え出すと時間のかかる自分のピュアな想像を、今から寝るのを言い訳にして追いかけることを手前で諦めるとき、よくある。
○『うたわない女はいない』(中央公論新社、2023.7)
当時リレー連載を追いかけて読んでいたので、本として買いはしましたが内容はもう知っていました。
なんか帯文に「心撃ち抜く労働短歌」って書いてたり、副題に「働く三十六歌仙」って書いてたり、ちょっと怪しいな……(その文句で合ってるのか?)という気持ちはありますが、個々のエッセイと連作は誠実なものなので、本の外側のことは一回無視して、所持しておこうと思って買いました。
改めて、この歌については書いておこうと思うものを書いておきます。エッセイについては皆さんかなり職業やその苦悶について書かれているものが多いので、読みましたが、触れません。詠草も、かなりエッセイとセットで作られているものばかりなので、抜き出した触れ方は適切ではないとは思いますが、ここではあえて抜き出して書きます。まだ読んでいない人は、ぜひ買って、エッセイとセットで読んでください。、
同僚が胸の高さに仕舞う紙 竹中さんは報告を受ける/竹中優子「竹中さん」
法月綸太郎の推理小説の主人公の名前が法月綸太郎、みたいな。竹中さんというのは自分のことなのに、まるで他人のことのように書くと、急に離人感が増すというか、上から見ているみたいになって不思議さと滑稽さがありました。
自分の視野に入っているけど、そこに自分の意識はあまり乗っかっていない感じが、「胸の高さに」という謎の発見に繋がっていて、とても不思議な温度の歌だなと思いました。仕事中、これくらいぼーっとすることあるな〜と思いました。自分が自分から離れていく感じ。
特に主張することはないということを主張している無印文具/戸田響子「晩秋の光」
無印への悪口としてはどストレートなものだと思いますが、一周半回って、ちょうどええ(ex.2丁拳銃)と思いました。このまえ無印の店舗に行ったらもうこの「特に主張することはない」がうるさすぎて居づらかったですね。
去年か一昨年か、無印の化粧水とかのフォントが変わり始めているという話を見かけて、なんかダサくなったなーと思いましたが、でもまあ元々それでいいんだっけ とも思ったり。
この歌だけでいうと、悪口8で、2くらいは応援も入っている気がします。そういう所が気に入らないという意見に加えて、でもそう見えているけど無印にも主張はあるんだよね みたいな。
今の時代は、主張と反論と憶測が悪意を燃料にして回り続けているような嫌な空気感がありますが、無印の癖のある透明な主張は、なんだか可愛いものとして応援できる気はするなと感じます。
詞書:京都大学が開発した〈同調笑い〉をするロボット「ERICA」のニュース
ロボットもニュースも男がつくるものビルは勃ちわたしは製氷器/北山あさひ 「ヒューマン・ライツ」
『ヒューマン・ライツ』も読みましたが、この歌やはり凄いですね。詞書がゾッとしました。機械でまで女性に同調笑いさせるんだ、という。「ニュースも」と、これをそのまま報じているニュース側への視点も忘れていない、全部ちゃんと攻撃するところも鮮やか(鮮やかという表現は適切ではないかもしれない)だと思いました。
ビル、たしかに、勃っててキモいな〜と思うことがある気がする。この表現を見たときに、飛んでいる比喩なのに全然違和感が無かった。(違和感がない、という状況が、既に良くないのかもしれない)
『ヒューマン・ライツ』の方で〈退屈な世界に刺繍されてゆくスパンコールが都市や同人誌〉が記憶に残っていて、下の句の語の詰め方がかっこいいなと思っています。「ビルは勃ちわたしは製氷器」。この静かな怒り。
往復をするたび近くなるんだと力説したらみんな笑った/岡本真帆「リモート・ワーカー」
この歌、泣きそうになるくらい悲しくて、それが正しい読み方なのかどうかしばらく考えました。
内容については、実際そんなわけないから、「みんな笑った」は正しい反応な気はするけど、主体は「力説」しているわけだから、気持ちの中では「往復をするたび近くなる」は真実としてある。だから、主体としては笑われたことになってしまう。
ここで起きているのは、「みんな」は、''私''の話を額面通り受け取っていて実際の距離のことを考えているが、''私''としては気持ちとして起きるその現象のことを理解して欲しかった、というズレ。
もしこれが、「遠くなる気がするんだ」だったら、みんなは心配してくれるかもしれない。そういう切実な話として。でも、主体は「近くなる」と思った。それが、無理をしているからなのか、なんとなくそう思っただけなのかは分からない。でも、力説するくらいにはそれは確かだった。
その実際の話と、感情や思考の話が、ずれながら同時にすれ違っている感じが、より切なくて、私にはちょっと悲しすぎました。共感する立場にいるからなのかもしれません。だからふつうに、(「みんな」に対して、)笑うなよ と思いました。
近くなる気がするといって笑われるくらい、大きな距離が離れているという事実。涙。
騒がしき歳末にして〈遠心〉を解答とする穴埋めクイズ/石川美南「遠い心」
上の句のsの連続と、全体のア段の韻が気持ちいいですね。遠心という言葉ってたしかにいい見た目。スーっと体外離脱みたいに心が離れていくような感じがする。心ここに在らず。
〈未明より晴れ 社長以下全員がなかやまきんに君肯定派〉
連作、かなりおもしろく読みました。リズム良すぎてびっくりなのと、よくよく考えると揃ってなかやまきんに君サイドの会社面白すぎるしやっていけるのか? と思いつつ、社長だけがなかやまきんに君を解さないのもまた、やりづらい会社なのではないかと想像しました。「肯定」が、なかやまきんに君のどの部分に対して言っているのかはちょっと分かりませんが(渡米前の話で、アメリカに行くことについて肯定/否定なのか、パワー! の価値観に対してなのか)。でもまあ「未明より晴れ」なので、総合的には良い方へ向かっているような気はして、にこやかな雰囲気でいいなと思いました。
平均台を走って渡る想像よ 考えはわたしたちを連れて行く/乾遥香「ドキン」
言い得ていて鮮やかだと思いました。平均台の上を走る想像をしたとき、「想像」自体も横に動いている感じがします。その想像の勢いと、その後に実現する私たちの行動、を下の句で綺麗にまとめていて、理路整然とした良い歌だと思います。
考えや、目標や、言葉が、先に向こうで待っていて、私たちを連れていってくれることって結構あるなーと改めて思います。
そして「わたしたち」なのがポイントで、私の考えが私を引っ張っていくだけではなく、誰かの考えが大勢を引っ張っていくことがあるという希望が書かれています。これは同時に、大勢を間違った方向へ扇動する危険性も含んでいて、だから「平均台」という踏み外せばすぐ落ちるぎりぎりの器具が合うんだと思います。明るい歌にも思えるし、慎重に考えていかなくてはならないという戒めの歌にも見える。どちらにせよ、きりっとしていて良いと思います。
連作内の、〈名前がなければ0点になるそのことを当たり前だとわたしは思う〉も良かったです。これは、「わたし」が厳しすぎるという訳ではなく、ルールがそうなっているんだから従わなかったらそうなるんだという、場のルールへの信奉の結果でしかないので、厳しくも優しくもないんだと思います。だから、名前がなくても許して貰えるようにするには、ルールごと変える必要がある。そういう仕組みに対する信奉。だからこそ、そこでは、ルール(法)は正しく存在していないといけないわけで、そこまでの指摘を含んでいる気がします。
○「スペア」(2024.11)
・自分が寄稿している同人誌の感想ってなかなか言いにくいというか避けてしまいがちですが、ふつうに他の方の作品が良かったので書いておこうと思います。
・あと佇まいが静かで、執筆陣もクールっぽい人が多い(と思う)ので、あまりぐいぐい宣伝したり褒められに行ったりすることがなさそうなので、(私自身も積極的にはしなかった)それはもったいないと思うので、3ヶ月ちょっとが経った今改めて触れておきます。
てきとうな唐揚げで飲む友だちが友だちがほしいと言っている/左沢森「航路」
自分は? と思った。この「友だち」に向かって、目の前にいるはずの主体は友だちじゃないのか? 友だちとは思っているけど、もっと他にいっぱい欲しいということなのか。主体目線でははっきりと「友だち」(1回目)って言っているから、あとは向こう次第。
でも向こうは、「てきとうな唐揚げで飲む」ような人なので、いったいどんなつもりで言っているのか定かではない。「友だち」(2回目)を、「てきとうな唐揚げ」みたいに思っていなければいいが。
歌の見た目上、「友だちが友だちが」という部分が発生しているのが、ちょっと気持ち悪くて面白い。実は「てきとうな唐揚げで飲む」のは「友だち」ではなく主体の方で、「友だちが友だちがほしい」と私が言っているという、酒で舌が回らない感じの歌にも見えなくはない。どちらにしても、酒っぽくて、入りと出がちょうどいい歌だなと思う。
まだ顔を描いてないから弟じゃないけど弟の粘土像/榊隆太「変身」
弟の顔を粘土で作っていて、それはまだ未完である、という歌として読んだ。顔が出来ていないから傍から見たらただの粘土の塊だが、自分としては思い描いている弟の顔があって、「いずれ弟になる粘土像」であるということ。
「弟の顔を描けば弟に近づいていく春の粘土像」みたいなパターンでの作り替えもできると思う。粘土像という変形しうるものを、どの段階で、どの視点から言い表すかという話。この榊さんの歌では、「まだ顔を描いてないから弟じゃない」という認識から出発している。これからなる、という未来志向の話ではなく、未来を想定すると今はまだそうではないという現在の方に重心が来ている。
だから、粘土像がこれから変形していきますという可塑性がメインなのではなくて、コンセプトだけがあってまだ完成していない粘土であるという物体の映像の方が強い。そのせいか、この歌を読んだときやたら不気味な粘土が脳内に映像で残った。「描いてない」「弟じゃない」と打消しが二回入るのも、粘土をこねくり回しているようで、ちょっと不気味っぽい。
短歌の想像としてはよくある、脳内で事が進んで現実では何も動いてないタイプのものではあるが、粘土という良い素材を選んだこと、内容に合わせたちょっと粘着質な打消しの使いかたとが上手くはまっていて良かった。この居心地悪さは、下手に推敲して消さない方がいいなと思う。
優しさのことを考えたい 月のイルカは月の蓮根が好き/笹川諒「ルリケール」
最初、「優しさの/ことを考えたい/(三句目消失)/月のイルカは/月の蓮根が好き」のリズムで読んでしまって、笹川さんにしては珍しいリズムだと思ったら、ふつうに「ことを考え/たい月の」で57577で読めた。
でも、この誤読は意外に大事だと思っている。もし、その定型に合わせて読んだら、「ことを考え/たい月の/イルカは月の/蓮根が好き」となり、意味と発声がずれることになる。つまり、「月のイルカ」「月の蓮根」というフレーズが、韻律によって一時的に裁断されることになってしまう。
もちろん、「たい月の イルカは月の」と声に出しても、そこまで意味が途切れない(頭のなかでは「月のイルカ」として十分捉えられる)という人の方が多いだろうが、私はそれだとわりと離れて感じる。できれば、内容に対して韻律が心地いい形で一致していたいというのが私の信条(?)なので、私としては、三句目が消失した下の句つめこみのリズムで読みたい。
でも、じっくりこの歌を考えたとき、私は結局「ことを考え/たい月の」の方で読むことに決めた。それは、「優しさのことを考えたい」を尊重してである。
「考えたい」だから、今は優しさが足りていないということかもしれないし、もっともっと優しさを突き詰めて考えていきたいということかもしれない。とにかく、現状よりも良い優しさを仮に想定して、それについて思いを馳せている延長で月のイルカ・蓮根が登場している。
とすると、表現についても、今が一番気持ちいい状態であるよりは、ちょっと不足した状態である方が内容に合っていると感じた。この歌がバチバチに定型であるよりも、跨って不思議なリズムになっている方が、「優しさを考えたい」状況に合っているような気がする。だから、「たい月の」になっても頷けるかもと思った(この理屈は他の人には分かってもらえない気がするが、内容と韻律の組み合わせについては私はかなり多用する)。
韻律はその辺りにして、「月のイルカ」が「月の蓮根」を好んでいるという状況が果たしてどれくらいの割合で「優しさ」を表しているのかが謎であり、見た目のファンタジーさに反して思いの外複雑な歌であるように思う。
ここからは完全に想像力勝負の世界になるが、月のイルカが地球の蓮根を好むよりは、月の蓮根の方が優しそうな感じがする。地産地消的に。
でもそもそも、イルカは蓮根が好きなのかどうかというところから読者としては新情報で、蓮根を好んでいることがどれくらい優しいのかは想像がつかない。イメージで行くとイルカが食べるものはもっと”洋”な気がする。「レンコン」はまだしも漢字の「蓮根」は和過ぎて、まだ信じ難い。けど、「月のイルカ」なら、「蓮根」食べるかもとなぜかすんなり思う。
''なんでも起こりうる場''としての月。「月のイルカ」まで行くとフィクションだと割り切って想像が可能だが、よく考えれば、地球から想像する月のことなんてほとんど確かでは無いフィクショナルなものになる。「月」単体でも、もう結構虚構かも。
月くらい近くに見えていても実態はそんなに分かっていない「優しさ」。実際そこで何が起きているか分からない、確かめに行こうとも不可能に近いもの。分かりやすくファニーにポップに書いているが、実は優しさに遠回りで迫れている的確な「考え」の歌のように思える。
余談として、この歌は作る人によって大きくスタイルを変えることが出来る。「優しさのことを考えたい」はキープして、「きみのお母さんはきみのお父さんが好き」と家族関係に持っていくこともできるし、「夜に怖くなったらクッションが好き」みたいな寄り添いを強調した言い方にもできる。親切すぎるくらい、夢っぽい素材については夢っぽく描いて、あんまり人の俗っぽいところを入れないところが、笹川さんらしい書きぶりだなと思います。言い方が適切かどうか分かりませんが、人間っぽくなく、思考だけがそこに透明に存在しているような感じ。そのあっさり加減が良い世界観を築いているなと思います。
意味ありげに映った洗面所のことが一瞬だったとしても気に掛かる/津中勘太朗「防波堤」
この歌を見て読み終わるまでに1秒程度しかかかっていない。でもその一瞬でもこの歌のことが気にかかった。
そりゃあ意味ありげに映ったんだったら気になるでしょうよ と思うものの、意味ありげでもそれを無視する人も多いんだろうなと思って、共感できる側とできない側でこの歌への肩の入れ具合は変わるだろうなと思う。
一瞬だった「としても」と言っているが、サブリミナル効果みたいなもので、きっと一瞬だった「から」気にかかるんだろうということは容易に想像がつく。そして一瞬だったからこそ、「意味ありげ」だと思ったんだと思う。ただ光景が流れていくだけだったら、「意味」の気配を感じることは無かった。
ここで想像されるのは、”ただ光景が流れていくだけ”だと思うときの、ふさわしい尺について。どれくらいの時間、映っていたら自然なのかという尺が、それぞれにあるものだろうか。一瞬ではなく、10秒だったら、気にかからなかっただろうか。洗面所は、何秒くらいで切り替わるのが一番ナチュラルなんだろうか。
そして、場所のことも思う。もし「洗面所」ではなく、「教室」でも、「意味ありげ」だと思うだろうか。「鉄塔」「駐車場」とか。
ちょうど洗面所で、ちょうど一瞬だったから、意味ありげで気にかかった。そういう、ちょうどそのときの奇跡的な待ちあわせを感じる。
さっき考えたように、他の尺とか、他の場所でも、些細な何かを感じ取ることができる主体なんだとは思う。でも、「としても気に掛かる」のは、それらがちょうどいい素材と尺だったから。もの・時間・思考がそろった綺麗な歌だと思う。
この歌を読んで、他の短歌もなんか途端に全部「意味ありげ」に見えてきた。洗面所なんかよりずっと「意味」だから、というか言葉は意味そのものだから、気になって仕方がない。
でもこの歌の中の主体が「気に掛か」ったのは、意味ありげのくせにその意味がまだ披露されていないことの消化不良の感覚から来ている。比べて短歌は、意味ありげではあるが、その意味が十数秒後にはだいたい明かされる。意味ありげであることのもやもやが到来する前に、妥当な尺で解決する。
意味ありげな短歌は、短歌自体が意味を説明してくれるが、意味ありげな洗面所は、その意味を洗面所自身が説明できない。それを意味ありげな尺で映した撮影者によってしかその意味は説明することが出来ない。その不自由さを抱えた洗面所は、むずがゆそうに見えるだろうと思う。
レードルを逆手にかえす昼過ぎのビーフカレーについて 回答/府田確「hydroplaning」
なんか分からないけど、この「回答」は「成敗」に見えました。以上。
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感想、言いたいものがまだまだあるので、あんまり貯めこまないようにして鮮度よく書いていけたらと思います。頑張ります。
20250207