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#17 「世界か私か?」「干し昆布だ」(郡司ぺギオ幸夫『天然知能』)

あらゆるものが繋がって、多義的に、重層的に、つまり過剰な流れ、濁流があって行為がある。


脳が糖分の不足を信号として発する時、それは問題として「糖分の不足を補え」を意味する。三人称視点における解決はブドウ糖であると既に出した解に基づいて指示し、メッセージを送っている。ここで、三人称とは別の一人称=「私」が現れてそのメッセージを受け取る。メッセージの受信者として生まれた私は、甘いものがそれほど好きではない、あるいは今そんなものを食べる状況にないと判断する。だから、「ブドウ糖」と言われてもあまり糖分の含まれていない嗜好し、干した昆布を口にする。

郡司ぺギオ幸夫『天然知能』P102の要約

身体の信号の受け手は、本当に「私」でなければならないのか。もしかするとその問いに対してテクノロジーが応答しようとしているのかもしれない。むしろ、そのメッセージの受け手がわざわざ「私」と語る必要がないよう、AIは到来したのかもしれない。もう10年以上前からインターネットを経由した情報はそのポジションを占めているように思うし、テクノロジー全般、例えば培養肉などはまさに身体の信号を「私」ではない領分に当てがい、処理させるマテリアルなのかもしれない。

このブドウ糖から干し昆布へのズレは何とのズレなのだろうか。昆布では満たされないブドウ糖の欲求は誰の欲求なのか。その残余、過剰はどこで生じているのか。その力がせめぎ合いながらも、決して美しい均衡が生まれない力の場(フィールド)が私という場で起きていること。あくまで出どころがわからない、ずれを通してしか想定し得ない欲求を示す痕跡としての私。私は、よくわからないけれど偏った、私よりも先んじた複数の力がズレ合う様を呆然と見かけたあの幼年時代を想起させる。




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